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 太陽も真上に昇った頃、少し早めの昼食を終えたグリエルモとソフィアは出発の準備を整え宿を出た。
 村中は未だに騒ぎが静まっておらず、そこかしこが喧騒に包まれていた。理由は無論、これまで続いていたアクバルの独裁が遂に終止符を打たれ、更にはかつての村の守り神であり行方不明中だったゼントクが帰って来たからである。生活を圧迫する理不尽な重税は無くなり、横暴の限りを尽くしていたアクバルも後ろ盾となっていた魔法を使えなくなった、もはや二度と苦渋に満ちたあの日々はやって来る事は無い。抑圧され続けた上での反動からか、解放感を感ずるままに喜ぶ村人の有様は尋常ではなかった。そんなある種のただならぬ雰囲気のせいか、二人は予想していたよりも遥かに楽に村の出口へ辿り着く事が出来た。
「ねえ、ソフィー。村を出るなら挨拶ぐらいするべきだと思うのだが」
「別にいいわよ、そんなの。目立たないようにそそくさと出るのが格好いいんじゃない。ずっと不詳だった名曲の作者が、何十年も後になってから歴史学者に特定されると話題になるでしょ?」
「なるほど、名作曲家は名乗らずとも誰かが必ず見つけるという事だね。追うより追わせろの理論」
「そういうこと。あ、ほら、そのカバンちゃんと持ちなさい。水平にして揺らしちゃ駄目。傷がつくと価値が下がるんだから」
 グリエルモは村に来る前と比べ、なにやら不自然に大きなカバンをマンドリンと併せて背負っていた。野営用のものなのか尋常ではない容積と耐久力を合わせ持つ反面、活用するはそれに見合うだけの体力を要求する、そんな機能美だけのカバンである。一見すると細身の優男にしか見えないグリエルモには到底似つかわしくないカバンであり、それを平然とした顔で軽々背負い上げる様もまた異様である。
 こそこそと裏通りを経由し村を出た二人。ソフィアはまず片手に地図を開き目的地となる次の街を探した。定めたのはこの大陸で最も栄えている商業都市、ここからは歩いて三日半程度かかるのだが、途中に経由する村からは交通網が敷かれているため実質は一日半ほどだという。商業都市ならば換金所といった各種金融関係も充実している。ソフィアの算段を満たすには正に打って付けの街と言えた。
「じゃあ、さっさと行くわよ。くれぐれも村人に気付かれない内に」
「了承した。しかし何だね、ソフィー。これではまるで、そう、アレではないかね?」
「何? 火事場泥棒じゃあないわよ」
「まるで駆け落ちのようだと思ったのだよ。惜しむらくは、今が満天の星空と満月の輝く月夜ではない事か」
「あのね、月夜の晩なんかに駆け落ちするバカがどこにいるのよ。明るい夜じゃすぐ見つかるでしょう? それに、月夜なら安心して夜出歩く人もいるし、余計に見つかりやすいわ。本気で見つからないように逃げるなら新月、それも雨の晩がベストよ。風が吹いてれば尚結構」
「ああ、ソフィー。君は残酷なまでに小生の甘い幻想を打ち砕く。しかし、それを憎めないのがなんて罪作りなんだろうか。おー、愛しき君よー」
「分かったから、さっさと急ぐ」
 そんなやり取りをしながら山道へ入ろうとしたその時だった。
「わっ!?」
 不意に目の前が眩しく光りソフィアは驚きの声を上げ顔を隠すものの、すぐにその正体に気が付き小さく舌打ちした。
「ようやく見つけましたぞ、お二方」
 現れたのはゼントクとアクバルだった。どうやら何かの魔法で追いかけて来たようである。
「もう発たれるのですか? 村人もせっかくの英雄をもてなす用意をしておりますし、何も告げず出られては忍びないですぞ」
「あ、いいえ、私達はホラ、ただの人助けをしただけですから。ほんの趣味ですのよ。ね、グリ?」
 そう作り笑いを浮かべながらソフィアは、ぐいぐいと前へ出ようとするグリエルモの肩を抑え、爪を立てて掴み同意を促す。くれぐれも余計な事は言うな、というサインでもあったが、当のグリエルモはそんな心配などまるで気付いてはいない。
「うむ、その通り。小生は非暴力を誓い、平和を一番に日々曲作りに精進しております」
「その割に随分と派手にやってくれたようだが……。まあ、それはそれで結構、村人にはわしから代わりに宜しくお伝えいたしましょう」
「そうしてくれたまえ。ついでに、ここで一曲別れの歌を披露いたしましょう。老人向きの曲ならば、『死に水行進曲』などが」
「結構じゃ」
 もはやグリエルモの不遜な態度には追求の念すらわかないゼントクは、溜息も出さぬ無表情で視線を外した。ただでさえ常人の枠から逸脱しているグリエルモの思考は修正不可能と諦めていた所だったが、グリエルモの正体が人間ではなく竜と知った事でむしろ達観すらしてしまっている。竜族は人間より長命で異なる時間を生きる種族である。人間の常識を持ち出し説くなどと、これほど馬鹿らしい事は無い。
「……くそっ、竜族がいるんだったら、対竜族の魔法を研究しとけば良かった。そうすれば絶対に勝てたのに……!」
 一方のアクバルは、皆に聞こえるようなわざとらしく愚痴った。だがその顔は、これまで虐げて来た村人から腹癒せに相当殴られたらしく、赤青紫と色取り取りの斑模様に腫れ上がっている。
「まだ分からんようじゃな、このバカ孫め」
「うるせえな、クソジジイ! 元々お前が対竜族の魔法を魔法書に書いておかないのが悪いんだ!」
「世界広しと言えど、竜族に通用する魔法を開発した人間がいるならお目にかかりたいものじゃな。竜族は先天的に魔法が効かぬ体質なのじゃぞ? そんな基本も知らないで魔道師を名乗るとは恐れ入ったわい」
「ふざけんな、このくたばり損ない!」
「今にも死にそうなのはそっちじゃろうが、バカ孫め」
 途端に顔色を変えて罵り合う二人。面倒臭い事になりそうだと眉を潜めたソフィアは、これ以上エキサイトしない内に声だけを間に割り込ませる。
「はいはい、死に損ないも色ガキも何でもいいから。私らは日が落ちる前に次の村に着かなくちゃいけないし、もう行くからね。じゃあ、さよなら」
 有無を言わせぬ早口でそう捲くし立てるなり、ソフィアはそのままグリエルモの袖を掴むと山道に向かって駆け出した。
 突然の水入りに驚き動きを止めるゼントクとアクバル。咄嗟に何事か声を上げて呼び止めようとするものの、あっという間に二人の姿は森の中へと消え見えなくなってしまった。
「最後まで騒がしい奴らじゃったな、まったく。もっとも、あやつらが村を訪れなければ、村は近い内に駄目になっておったところだ。感謝せねばなるまいな、アクバル? あやつらのおかげで、お前は人の道を踏み外し続けずに済んだのじゃぞ」
 既に姿も見えなくなっていたが、ゼントクはまるですぐそこに二人がいるかのように、穏やかな表情で走り去っていった山道を見つめていた。しかし、アクバルは怪訝な表情のままそんなゼントクに問うた。
「おい、クソジジイ。放っておいていいのか?」
「何がじゃ? 二人は村の恩人じゃぞ。礼は要らぬと言うのだから、好きにさせてやれば良いだろう」
「でもあいつら、屋敷の宝石やら何やら、根こそぎ持って行ったぞ。多分、ジジイのへそくりごと全部」
「は?」
 ゼントクの顔色が急激に青褪める。そして、
「ば、バカ孫が! 何故それを早く言わぬ!」
「だってよ、あのバカ竜に関わんのはもうコリゴリなんだよ。これ以上は命が幾つあっても足りねえし、それにもう体中痛くて何もかも面倒臭い。取り替えしたきゃジジイ一人で行けよ。どうせ俺は魔法使えないし、走っても追いつけねえよ」
「こ、この戯け者めが! 一体どこでどう育て方を間違えたのか―――うっ!?」
 すぐさま土気色になり、へなへなと膝から崩れ落ちた。顔からは脂汗が一気に噴出し、気分が悪そうに口元を押さえひとしきり咳き込みえづく。
「興奮し過ぎだジジイ。本当にくたばるぞ?」
「……余計なお世話じゃ」