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 僕はもう終わりだ。
 橋の欄干に手をそっと乗せ、空を仰ぐ。日暮れに差し掛かっている夕空は雲一つ無いほど晴れ渡り、小鳥が小さな群を作って横切っていく。このまま彼らの住処に戻り朝までゆっくり羽を休めるのだろうか。
 小鳥への羨望を振り払い、僕はゆっくりと欄干へ右足をかける。視界は慣れない高さまで持ち上がり、そして普段目にする事のない急角度から橋の下を流れる川と川沿いの風景が広がった。
 途端に心臓は恐怖で高鳴り、欄干に添えた指先が拒絶しているかのように痺れ始める。
 しかし、ここで躊躇ってどうなるものか。もはやこうする意外に残された道はないというのに。
 ゆっくり息を吸い込み、そこへ雑念を込めて一気に吐き出す。それで体裁を取り繕えるぐらいには落ち着きを取り戻し、揺らぎかけた意を再度決する事が出来た。
 だが―――。
「ねえ、あれを御覧よソフィー。愚かにも人が飛ぼうとしてるよ」
「やあねえ、今時身投げ? せっかく綺麗な街に着いたと思ってたのに、いきなり台無しじゃないの」
「人は空を飛べるのかい? 飛べなくとも、飛ぼうとする姿こそ美しいのかい? 高く飛ぶ夢ばかり見るから挫折するのかい? ううむ、何か良い歌詞が浮かびそうだ。きっと素晴らしい悲歌になるだろう」
「そんなの美しい訳ないでしょ。跳んだら落ちるだけよ。後は潰れた蛙と一緒」
「やあ、それは醜いこと極まりないね。しかし何故尚も人は空を求めるのだろうか?」
「感傷的になってるだけ。お酒と一緒よ。単なる現実逃避。中にはそういう自分の姿に酔ってるのもいるけど」
「自己陶酔とは惨めだねえ。はて、一向に跳ばないようだが、思い留まったのかね? この土壇場で、小生のインスピレーションをどうしてくれるのだ」
 青年のすぐ背後の位置から聞こえてくるのは、今まさに橋から身を投げようとしている青年を止めるどころか、後押しに留まらずむしろ嘲っている感すらある賑やかなやり取りの声だった。単なる世間話に花を咲かせているならば青年も聞き逃すところだったが、明らかに自分を煽るようなセリフを平然と並べられては居ても立ってもいられなくなる。
「君達、いい加減にしてくれ! もう少し言葉を選んだらどうなんだ!?」
 欄干にかけていた足を戻すなり、そう青年はいきり立って振り返るなりそう声を荒げ叫んだ。
 そこに立っていたのは、如何にも旅芸人といった風体の男女二人組みの姿があった、男性の方は青年に近い年齢に見受けられるが、体の線が細い長身痩躯、薄暗い時間帯だが夕日を受けて輝く銀髪が印象的である。その背には楽器らしきカバンの他に肩幅よりも大きなカバンを背負っていた。明らかに無理のある姿なのだが、当の本人は平然と立っている。一方その連れは、幾つか年下のブロンドの少女だった。自らの荷物は全て銀髪の方へ押し付けているらしく非常に身軽な格好である。
「あら、ごめんなさい。でもね、死ぬならどっか余所でやってくれないかしら? 綺麗な川が汚れるでしょ」
「人を汚物のように言うのは止めていただきたい」
「はっはっは、死ねば皆汚物だよ。蛆がたかり皆が眉を潜める」
「そんな暴論だ……」
 何なんだこの二人は。
 あまりに常識から外れた発言を繰り返す彼らを前に、青年は思わず重い頭を抱える。
 こんな自分の姿を見て、同情するどころか逆に笑い者にしてくるとは。普通、自殺に走ろうとする者を見つけたならば、まずはその理由を問いただすものだろう。なのにどうして人の不幸を笑いの種に出来るのか? まさか、本気で死のうとはしていないと安易にたかをくくっているのだろうか?
 予想以上の世間の冷たさには、絶望を通り越して怒りすら込み上げてくる。しかし、これ以上かかずり合うのは時間の無駄であり、青年は二人を追い払いにかかった。
「とにかく、僕の事は放っておいてくれ。これから死ぬんだ。無責任に止めないで貰いたい。僕が生きる事に責任を持てるのかい? 持てないだろう? だったらおとなしく死なせてくれ」
「じゃあ後で憲兵さん呼んでおくから、くれぐれも面倒臭い死に方しないでね。変なの飛び散らせるとか、いつまでも川底に引っかかるとか、見た目キツイでしょ? それから、ちゃんと遺書は書いた? 不振な死に方されると、後で事情聴取される人が迷惑するから気をつけて」
「余計なお世話だ!」
「ところでちょっと聞きたいんだけど。この街で宝石商ってどこにあるのかしら?」
「もうみんな閉まったよ! 明日にでも大通りに行けば腐るほど見つかる!」
「ふむ、何をそう興奮しているのかね? 自殺するほど絶望しているならば、もっとうじうじと言葉少なく惨めな様を晒すものだが」
「分かってて言ってたのか!? いいからもう、さっさとどこか行け!」
 まったく失敬な輩だ、と何故か銀髪の方も憤慨しつつ、二人は青年の前から興味を失ったかのように足早に去っていった。二人の姿が見えなくなった事を確認するなり青年は、気を取り直し川へ向き直ると、一度深呼吸した後に欄干へ再び足をかける。
 ああ、思えば都会に来ても良いことは一つもなかった。いつか自分は出世すると信じ、耐え難きを耐えてきたというのに。結局は何一つ手元に残らなかった。自分には才能が無かった。運も無かった。努力は人一倍してきたつもりだけれど、それを発揮する機会にはとうとう巡り会えなかった不運。ああ、神様は残酷だ。せめて死ぬ間際ぐらい良い夢を見させてくれてもいいものを、よりによってあんな馬鹿二人組を使わしになるとは。
 しかし、もういいのだ。ここから身を投じれば、全ての苦痛から解放されるのだから。
 青年はおそるおそる身を乗り出し、欄干から眼下の川底を見下ろす。だが予想外に川が小さく見えた事に思わず息を飲み、乗り出した身をそそくさと引っ込める。
「……やっぱり今日はやめとこうかな。うん、そうだね。ホラ、今死んだら、最後に会話したのがよりによってあの二人組になるし。きっと悔いが残って死ねないかもしれない。うん、そうだ、そうしよう」
 あっさりと踵を返した青年は、ふと思い出した空腹に腹を押さえる。そういえば今日は朝から何も食べていない。お金はあまり無いが、少し食べれば何か閃くはず。そう考えた青年は、早速街中の方へ足を向けた。
「やーっと見つけたぜ、マルセル」
 しかし、その時だった。不意に聞こえて来たその声に、青年は思わず背中をピンと張り硬直する。
「今日こそはきっちりと耳を揃えて返して貰うぜ。とっくに返済期限は過ぎてんだからな」
 おそるおそる振り向くその先には、一人の中年の小男と黒服の大男が三人立っていた。身形は良くも柄の悪い、明らかに堅気の仕事をしている人間ではない様相である。
「あ、あはは……ごきげんよう」