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 怒りの表情も露に、白スーツの男は首元のシャツの合わせ目に指を突っ込んでボタンを引き千切り首を楽にする。そしてぎらぎらと輝く指輪の嵌った左右の指を交互に鳴らすと、宣戦布告と言わんばかりにグリエルモの顔を睨みつけた。
「ねえ、ソフィー。なんか怒っているようだけど、どうしてだろう?」
「さてどうしてでしょう。ほら、グリ。お姫様を悪い豚から守るのは騎士の役目よ」
「あれはただの豚ではなく悪い豚なのか。ならば、か弱い君は下がっていたまえ」
 二人が平然と更に禁句を重ねる様を見て、白スーツの男は一層眉尻を険しく逆立て奥歯をぎりぎりと鳴らしながらグリエルモを睨みつける。しかしグリエルモは平素のとぼけた表情で小首を傾げながらその男を見ている。
「よう、若いの。こういう商売をしている者はな、何事も筋はきっちり通さなきゃならねえんだ。それは何故か分かるか?」
「精神論とはね、文化まで発展させなければただの陋習だよ」
「……とにかくだ、本来なら堅気には絶対に手を出さないところだが、こうもコケにされちゃあ沽券に関わるからな。この『白竜』カーティスと言えど黙っていられねえ」
「白豚が苔の生えたセリフを並べても滑稽なだけだよ」
「もういい、てめえは沈める」
 頭から湯気が出そうなほどの勢いで怒るカーティスは突如、その底弛みな体型からは想像もつかない鋭さで一気にグリエルモの目の前へ踏み込んできた。対するグリエルモは小首を傾げると、のんびりとした表情で視線をカーティスへ下ろす。既にカーティスは右袖を捲くり上げ、驚くほど逞しい筋肉質の腕を大きく振り被っていた。
 短い一息で肺の空気を搾り出し、カーティスは限界まで引き絞った右腕を繰り出す。まるで砕石用のハンマーを思わせる右拳は、グリエルモの薄い腹筋へ真正面から突き刺さった。
 肉を打つ音は金属と違い重苦しく反響がない。それでも打たれた部分からは、到底人体を普通に殴ったとは思えない良く反響する大きな音が聞こえて来た。おそらくカーティスの重いパンチを知っているであろう黒服達は皆、この音から推測する衝撃の度合いに思わず顔をしかめる。一般人よりは多少鍛えている程度では、嘔吐どころか当分はまともに食事すら取れなくなるカーティスの一撃、傍目にも決して逞しいとは呼べないグリエルモでは到底耐えられるはずは無いと誰もが思った。
「ふむ、沈めるとはどういう意味かね?」
 しかし、痛みを堪え地面にのた打ち回っているであろうはずのグリエルモは、きょとんとした表情のまま小首を傾げカーティスを見下ろしていた。まったく初めての反応にカーティスは驚愕し、慌てて自分の拳が打ったところを確かめる。グリエルモは薄手のシャツは着ているが、腹との間に何か防具を仕込んでいる訳でもなく、自分がうっかり打ち損じる事は有り得ない。なのに、何故この青年は平然と立っているのか。自らの腕っ節が自慢だっただけに、カーティスは目の前の現実を俄かに受け入れられなかった。
「なっ……! くそっ、この野郎! 食らえ!」
 一発で駄目ならばと、カーティスは次々とグリエルモの腹に目掛けて左右の拳を繰り出す。だがその連打の嵐にもグリエルモは平然と立ち続け、うめき声を上げるどころか退屈そうな溜息すらつく有様だった。
「あんた丈夫ねえ。手とか痛くないの? 大体みんな、一発もやれば骨が折れて半泣きになるんだけど」
「うるせえ小娘! 俺の拳は鍛え上げられた鉄、鋼の拳よ! こんな小僧の一人や二人、なんてこたねえ!」
 グリエルモの後ろで呆れるソフィアを尻目に、カーティスはひたすらグリエルモを連打し続ける。そんなカーティスの頭を、遂に痺れを切らせたグリエルモが上から鷲掴みにして無造作に持ち上げた。
「鋼の拳だか蹄だかは分からんが、君には優雅さない。小生が音楽を通じ優美というものを教えて差し上げようか」
 まさか物のように持ち上げられるなど予想もしなかったカーティスは、驚きのあまり全身を硬直させ振り回していた両腕をぴたりと止める。その構図は文字通り蛇に睨まれた蛙そのものだった。自分の腕の半分にも満たない細腕に、お世辞にも中肉中背とは言えない自分を持ち上げられるなど、本人どころか部下の黒服達すら予想もしなかった。
「な、なんで、そんな平然と……嘘だろ……?」
「嘘ではないよ。小生、これでも音楽を生業とする身でね。いずれは世界中の皆が挙って小生を讃えよう」
 唖然とするカーティス、得意げな顔で講釈するグリエルモ、どうしたら良いのか分からず顔を見合わせる黒服達。初めこそ日常茶飯事である小競り合いだったが、長く続き過ぎたせいか次第にギャラリーも増え始めている。このままでは憲兵がやって来るのも時間の問題だ。
「ねえ、グリ。そろそろ終わりにしない? そっちの丸いおじさんも、これ以上恥を晒すの嫌でしょ?」
「何を言うのかね、ソフィー。小生、まだこの白豚に歌の素晴らしさを伝えてないのだよ」
「えー、それよりも私、部屋であなたの子守唄を聞きたいなあ」
「お安い御用だよ、愛しい人」
 わざとらしいソフィアのおねだりにあっさりと意見を翻したグリエルモは、もはや興味を失ったとばかりにカーティスの体を放り投げ、連れられるがままソフィアと宿の中へ消えて行った。
 そんな二人をカーティスは、あれほど禁句を何度も繰り返されたにも関わらず激情も嘘のように失い、呆然と路面に座って見つめていた。敗北感や自信の喪失は確かにあったが、それ以上に渦巻いているのは信じられない体験をしたという純粋な驚きだった。喧嘩でも常に勝ち続けてきた訳ではなかったが、少なくとも自分の豪腕が通用しなかった相手は存在しなかった。その信じ難いものが実在したばかりか遭遇した驚きで思考はほぼ真っ白になっている。
「ボ、ボス、大変です! マルセルの奴が逃げました!」
「何だと!? この間抜け共が、早く探せ!」
 茫然自失とするのも束の間、すぐさまカーティス達は立ち上がり慌しくその場から走り去っていった。