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 グリエルモはソフィアに腕を引かれながら足早に店の出口へ向かっていた。ソフィアが引率するのは、グリエルモは少し目を離すと勝手に何処となくふらふらと居なくなってしまうからである。ソフィアはグリエルモの好奇心がそれほど常軌を逸したものである事を十二分に理解しているのだ。
「ねえ、ソフィ」
「営業には行かないわよ」
「違うよ。行かないんだったら、小生も買い物したいんだ。こう、霊感を刺激するようなものを」
「またいつもの無駄遣い? それでおとなしくしてくれるならいいけどさ、でも今夜はもう疲れたから明日にしたいわ。どうしても今日じゃなくちゃ駄目?」
「おお、愛しい君。願わくば、その羽を小生で休めたまえ。小生はいつだって君の宿り木だよ」
 個室専用の物静かな廊下を抜け出たエントランスホールは、大勢の客達の賑わいで熱気と控えめの喧騒に溢れていた。流石に高級店というだけあってか、後先考えずに馬鹿呑みし奇声を発するような客は一人としていない。さりげなくブランド物を着こなし落ち着いた雰囲気を漂わす、自分達の住む世界とは明らかに一線を画している。
 ああいう階層の仲間に入れればなあ、とソフィアは羨望の眼差しを向けるものの、そんな自分の姿が浅ましく思え、たちまち自己嫌悪で不機嫌そうに眉を潜め足早に正面玄関へと向かう。そんな二転三転と目まぐるしく表情を変えるソフィアを、グリエルモはさも愛でるかのような微笑ましい眼差しで見つめている。
「おい、待ちやがれ!」
「この野郎! 逃げられると思ってんのか!?」
「返済日をたった一週間も待ってくれない金貸しに、いちいち確認して逃げる訳ないだろ! 誰が捕まってやるもんか! あの白豚のお守りでもしてるんだな!」
 突然、店の雰囲気に明らかに似つかわしくない剣呑な様相の声が二つ三つと響き渡る。この出来事に客達は一体何事かと小首を傾げながら席から立ち、首を伸ばして状況を確かめようとする。だがそれよりも先に、廊下側に近い位置にいたソフィアが今起こっている出来事を理解した。そして、早足程度だった歩調をいきなり切羽詰った駆け足へと切り替える。
「逃げるわよ。ああいう馬鹿と関わってるとロクな事にならないから」
「『何処に居ても惹かれ合う君と僕ー、それはきっと魂が求め合うから? 付いては離れ、また付いては離れる、まるで上顎と下顎のようだね』」
「だから歌ってないで急げって。カバン、ちゃんと持ってなさいよ」
 衆目は突然奥の通路から飛び出してきた一人の青年と、黒服の男達へと注がれる。予想外の事件に店員は色めき立ち、客達からは恐怖の悲鳴や非難の怒号が飛び交う、場はあっと言う間に混乱の坩堝と化した。
 これを好機と見るや否や、ソフィアは上半身を屈めた本格的な姿勢を取って足を速める。正面玄関はすぐ目の前、入り口にはベルボーイのような店員が常駐しているが、それもこの勢いのままなら突破出来る。問題のグリエルモも、こうしてしっかりと腕を掴んでいるからはぐれようが無い。
 客達から、あっ、という一声が挙がった。それは、追いかける黒服に対して罵倒を浴びせながら逃げていた青年がいきなり躓いて転倒したからである。すぐさま立ち上がり逃げようとするものの時は既に遅く、あっという間に飛びかかってきた黒服達が押さえつけ、動けぬようにと足蹴にし始めた。
「おや? さっき部屋にいた小猿が黒猿の群に踏まれているよ。やあ、変わったディナーショーだね」
 喧噪の中から一際上がる悲鳴にグリエルモは、スキップでソフィアを追走しながら首だけで振り返りそんな彼らの状況を見て口元を綻ばせる。しかし逃げる事に必死のソフィアは一言すら反応を見せない。
「助けてー! 今まさに玄関へ向かって駆けていく銀髪の人!」
 明らかにこちらへ向けられているマルセルの叫び。余計な事を言うな、と罵倒の一つもくれてやりたかったが、既にその一言でこちらに気づいた黒服の一人が、一体何のつもりか後を猛然と追いかけて来た。理由はどうあれ歓迎すべき要素は何一つ無く、ソフィアはひたすら逃げに徹する。
 正面玄関が目の前まで迫って来た。ソフィアは尚も速度を緩めまいと、スカートにも構わず歩幅を更に一歩広げて加速する。
「お、お客様!? お待ち下さい! 走っては危険です!」
 ただならぬ勢いで駆けて来るソフィア達の様子に、思わず店員が両手を前へ広げて制止を試みるものの、十分過ぎる加速がついている相手に対し真正面から受け止める自信は無いらしく及び腰で通路の端から注意をするだけだった。進路の邪魔にはならないならばとソフィアは存在を無視し、真っ直ぐ正面玄関へ飛び込む。
「あっ!?」
 だが、その時だった。突然、正面玄関のドアが店の外から開かれ、外から幾つかの人影が店内へ歩み寄って来る光景が目に入る。
 まずい、と心で警告を発した時は既に遅かった。ソフィアはほとんど勢いを殺せないまま、その団体の一番先頭を歩いていた人間と正面から衝突し、そのまま滑り込むように転倒する。
「若頭っ!? 御無事で!」
「貴様、どこの鉄砲弾だ!? 正面からとは良い度胸をしてるじゃねえか!」
 立ち上がるよりも先に聞こえてきたのは、そんな不自然なほどドスを聞かせた男達の声。それが痛みに対しての悲喜こもごもを一瞬で吹っ飛ばした。
 よりによって、そういう連中にぶつかってしまったなんて。ソフィアは身の毛もよだつ思いだった。身を守るだけなら何て事はないが、ぐずぐずしていては追いかけて来る黒服に追いつかれ、あのマルセルに再び巻き込まれかねない。
「群れる事しか能の無い脆弱な屑共め……我が太陽に手を上げるとは命知らずにも程があるぞ……!」
 よりによって、グリエルモはここぞとばかりに普段のとぼけた雰囲気を一掃し、今にも本性を現さんばかりに殺気立って一同を睨みつける。どうやらソフィアが転んだ事の非は相手側にあると一方的に決め付けているようである。グリエルモには珍しくも無い思考だったが、今回ばかりは少々タイミングが悪い。
 更に悪化の一途を辿る事態。グリエルモをなだめていては余計に時間を食ってしまう。かと言ってこのまま放っておいては、いつ本性を現して暴れだすか分からない。それこそ、こんな店などものの数分で倒潰してしまうだろう。
 恥らいが無ければ唾でも吐いたであろう状況にソフィアは、危うく涙を流しそうになる。しかし、何とか心を折らぬよう冷や汗を堪えながら次の一手を模索しようと思考を巡らす。
 すると、
「これは失礼をした。すっかり余所見をしていたようだ。御怪我はございませんか?」
 一触即発の最中、ソフィアがぶつかった青年はスッと立ち上がると、何事も無かったかのようにソフィアの前に跪いて手を伸ばしてきた。意外な相手の反応に驚きながら、おずおずと手を取り立ち上がるソフィア。視線の先にある青年は決して押し付けがましくない品の良い笑顔を浮かべながら、転倒の拍子に擦ったらしい手の甲を優しく撫ぜる。そして、
「美しい人、どうか私にこの非礼の償いをさせて戴けないでしょうか?」