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「え? あ、いや、私は大丈夫ですから」
 そんな事よりも、追いかけてくる黒服から一刻も早く逃げなければ。いや先にこの苛ついたグリエルモをどうにかするのが先か。
 しかし青年はソフィアの手を離そうとしない。むしろ、より大胆に手首の方へと伸ばしていく。
「遠慮などはなさらず。淑女に無礼を働いた手前、償いもせずに帰しては信条に背きますので」
「いいえ、本当に何とも思ってませんから」
 そんな互いに退き合う膠着したやり取りを続けるその頭上で、男達は更なる殺気をぶつけ火花を散らせていた。
「どこの誰かは知らんがな、意地張るなら相手を良く見た方がいいんじゃないのか?」
「こっちはわざわざ一人ずつ相手するほど優しかねえぞ?」
「相手? 猿が三匹いるだけであろう。田舎猿は数もまともに数えられぬねか」
 状況はますます混乱し面倒な方向へ向かっている。
 このままぐずぐずしてはいられない。こうなれば、もはや強行突破あるのみだ。
 自分の中に開き直りに近いもの感じながら、あえてそれを飲み込んで胎を決めたソフィアは、尚も言い寄る青年の手を払い立ち上がる。
「下がりなさい、無礼者!」
 とっさに叫んだ言葉は、何故か貴族のように高圧的な調子だった。しまったと喉が縮むものの、それは青年にとっても予想外だったらしく、驚きも露わに硬直していた。
 この路線、意外といける!
 そう確信したソフィアは更にキャラを誇張させ立ち回る。
「グリ、いつまでそのような下郎と戯れているの! 早く行くわよ!」
「でも、このゴミはソフィーを」
「お黙り! この私に口応えするつもり!? 百年早い!」
 余計な事を言われる前にという気負いがあったかもしれない。ソフィアは何かを言いかけたグリエルモに対し、いきなり頬を張っていった。
 驚きの波紋は予想以上に大きく、頬を張った小気味良い音はグリエルモどころか衆目までもを黙らせてしまった。
 職業柄、この突然の静寂にソフィアは怯んだ。だが今なら振り切れると悟るなり、すぐさま呆然と佇むグリエルモの袖を掴む。
「逃げるわよ、急いで!」
 それからしばらくの間、ソフィアは無我夢中で駆けるあまり記憶がほとんど無かった。初めて訪れた街の、見慣れぬ裏道を更に暗い方へと選び曲がりながら駆けている内に自分の居場所すら見失っていた。それが危険な事だと気づく頃、ようやくソフィアは足を止めた。
「ふう、これできっともう追って来ないでしょう」
 人気の無い路地は、耳を澄ませば街の喧騒が随分と遠く聞こえて来る。周囲には誰も居ない事が確認出来ると、ようやくソフィアは一息をついて口調を元に戻した。久しぶりに走った訳ではなかったが、太股から脹脛にかけて重量感に似た鈍い張りを感じる。それを気にして身を屈めさすると、今度は空腹感が思い出したように湧き上がってきた。食事も途中で飛び出してきたのだから無理もない。そう分かってはいても空腹感は気持ちを暗く沈めてしまうため、溜息をつかずにはいられなかった。だがその時、まるでソフィアの溜息に同調するかのようにもう一つの溜息が聞こえて来た。
「グリ? 何いじけてるの?」
 振り返った先では、角の隅でグリエルモが長身を小さく屈めていた。
「小生なんて……きっと要らない子なんだ」
 グリエルモは話しかけるソフィアの方を振り向きもせず小さな声でそう呟く。普段はまるで悩みなどない脳天気な振る舞いばかりが目立つグリエルモには珍しい仕草である。
 何かあったのだろうか? そう首を傾げるソフィアだったが、すぐに心当たりが脳裏に浮かび、微苦笑しながら肩をすくめグリエルモの背にそっと寄り添った。。
「ごめんねグリ。ああでもしないと、みんな引かないでしょ?」
「……でも、いきなりなんて酷いよ」
「本当はちゃんと示し合わせておきたかったけど、そんな暇も無かったから。でもね、私はグリの事が嫌いでぶったんじゃないよ?」
 人間を種として見下しているグリエルモではあったが、ことソフィアに関しては非常に敏感ですぐに感情的になる。そんなソフィアから受ける事には過敏で、度を超えた鈍感さも嘘のように繊細になる。それをソフィアは、竜族にとってはまだ子供の部類に入るからだろうと解釈している。だが、普段のあきれた鈍感ぶりや自己中心的な振る舞いにより、その事を忘れてしまいがちである。
 しばし子供のようにぐずるグリエルモを背中から優しく抱きしめながらなだめていたが、やがて立ち直ったグリエルモは唐突に振り返るなり今度は逆にソフィアを抱きしめてきた。既に表情は平素に戻り、幾分かの恍惚さえ窺える。
「おお、愛しい君。全て分かっていたさ。『愛のためならば、痛みも惜しくないー』」
「はいはい分かったから」
 本人なりの平静を取り戻したと見るや否や、ソフィアは普段の淡白な調子に戻ると、頬を摺り寄せてくるグリエルモの顔を押し退けた。顔が変形するほど力を込められていたが、もはやそれぐらいで落ち込むことはなかった。
 とりあえずグリエルモの調子も戻ったし、次は夕食の事を考えなければ。
 そう思い立つソフィアだったが、ふとこちらをにこにこしながら見つめるグリエルモの風体に違和感を覚えた。グリエルモの様相に、あるべきものが一つすっぽりと欠けているのである。
「あれ? そういえばカバンは?」
「カバン? うむ……、何のカバンだったかね?」
 明らかに手ぶらのグリエルモ。しかも、まるで初めからそうだったかのような振る舞いである。だがソフィアは一瞬で血の気が引き青褪めた。
「この駄目男! 何で無くすのよ!?」
「小生は駄目ではないよ」
「駄目よ、駄目駄目! どうして平然と無くせるかな!?」
 思わず大声で叫ぶソフィア。しかしグリエルモはきょとんとした表情で悪びれず見つめ返すだけだった。ソフィアの非難は当然の事だが、そもそもグリエルモはあまり人間社会の価値観を正確に理解はしていないため、致し方ない事だがグリエルモを非難した所でそれはあまり意味を為さない。
「あっちだ! 声が聞こえたぞ!」
 するとその時、どこからともなく聞こえてきたのは何人かの男の声だった。同時に忙しない足音も聞こえて来る。
 まさか、もう見つかってしまったのだろうか?
 慌てて逃げ道を求め周囲を見渡すソフィア。だがそれよりも先に、角から光の帯が幾本か差し込み声を発していたらしい人の群が辿り着いてしまった。幾らなんでも早過ぎる、と驚く以上に、ソフィアは別な点で驚きを露に口を半開きにする。後を追ってやって来たのは、何故か先程の店の入り口でグリエルモと睨み合った物騒な男達と、何故かそんな彼らと行動を共にしているマルセルだったからである。
 そして、二人の姿を見つけるなりマルセルは開口一番に叫ぶ。
「やっと見つけました、御主人様!」
 誰が!?
 ソフィアは眉間に皺を寄せ、喉元まででかかった言葉を咄嗟に飲み込んだ。