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 三人がライオネルに案内されたのは、市街の中心にある高級ホテルの一室だった。このままどこかへ誘拐されるなどと考えもしたが、あまりにあっさり杞憂と分かってしまいいささか拍子抜けすら覚える。
「さあ、こちらへ。あいにくスイートは取れませんでしたので、このような部屋にお通しする事をお許し下さい。入り用の時は何でも用意させるので気軽に申しつけて下さい」
 そうは謙遜するものの、そこはこれまでソフィアが見たこともないような広い客室だった。しかもただ広いだけでなく、調度品も高級そうなものばかりで備品も一目見た限りではどれも高級ブランド物しか置いていない。まるで自分が想像する大富豪のような空間に思わずはしゃぎそうになるものの、今の自分はこういう所など住み慣れているような身分という事になっているため、ライオネルの目がある内はぐっと気持ちを堪え落ち着き払った態度で振る舞う。
「さあ、今夜はお疲れでしょうからごゆっくりお休み下さい。従者の方々は別室へ御案内します」
「それはあっちのマルセルだけで結構よ。グリエルモは私の警護役ですから」
「よろしいので?」
「実はこのグリエルモは幼子から共に育った乳兄弟なので。いつも一緒に暮らしていたのだから、離れた方が余計に不安だわ」
 マルセルは何で自分だけと言わんばかりの潤んだ視線を向けてくるが、それがあまりにわざとらしく見えて腹が立ったのでソフィアは視界に入っていない事にする。そうしている内にライオネルに促されたため、下手に騒ぐのはかえってマイナスと踏んだのか渋々部屋の外へと出て行った。
「あのお荷物は確かにお預かりさせて頂きます。明日、昼頃にこちらから迎えを出しますので、それまではこの部屋でおくつろぎ下さい。何卒迂闊な外出などされぬよう」
「何から何までありがとうございます」
「いいえ、これは私のほんの些細な謝意ですから。それに……」
「それに?」
「いえ、何でもありません。忘れて下さい。ところで、まだお名前を伺っておりませんでした」
「小生、名をグリエルモと申す」
「あなたではありません」
「承知した。では一曲、出会いを喜ぶ行進曲を披露いたそう」
「……それでは失礼いたします。おやすみなさいませ」
 最後にグリエルモの言葉を遮るかの如く、一方的だが非常に礼儀正しく紳士的な作法で一礼しその場を後にした。
「無礼な男だ。人の挨拶を無碍にしようとは」
「挨拶に小一時間も取られたくないだけよ」
「……ソフィーは小生よりあの男を庇うんだね」
「私はいつもグリの味方してるじゃない。女を疑うのは犯罪者の始まりよ」
 むくれるグリエルモの頭を撫でつつ、ソフィアはテーブルの上にあったグラスへ水を注ぎ一口含む。これまで嘘の付き過ぎですっかり乾ききっていた口内に染み渡ると、心なしか安堵の溜息が自然に口をついてきた。厄介な状況は依然変わらないが、せめてもの救いはあれがきちんと換金出来そうな事、それだけに気持ちはどん底まで沈むには至らない。
 それにしてもライオネルは、初めから最後まで一分の隙もない完璧な好青年だった。しかしその完璧さはむしろ鼻につく。表で完璧を演する者ほど、裏の自分を隠したい気持ちが表れているものである。神竜会とやらも薬物どころではない、もっとえげつない商売をやっているのかもしれない。
「ねえ、ソフィー。お腹空いたよ」
「そうねえ、私も食事途中だったから。何か簡単なのをルームサービスで頼もうか。どうせ代金はあっち持ちだもんね」
「クルミパン、頼んでも良い?」
「好きなの頼みなさい。それと、お風呂入れといて」
 ソフィアの許可が出るや否や、早速グリエルモはオーダーメニューを片手にあれこれと選びつつ喜びの歌を口ずさむ。そんなグリエルモの愉快な姿を眺めながら、両手が自由ならきっとマンドリンも弾きながら小躍りするんだろうな、と肩をすくめ微苦笑する。
 今日は色々な事があり過ぎて散々な一日だった。思わぬ形で今夜は豪勢な部屋に泊まる事が出来たものの、明日からは様々な問題が山積しているため、それらを片づけていかなくてはいけない。
 まずはライオネルより代金を受け取り、それから如何に追求から逃れこの街を出るか。そこが一番の問題であり、最優先で解決しなければならない事だ。
 とりあえず、今日はもう疲れて何も考えたくない。これ以上思い悩むのは明日へ持ち越そう。
 それからソフィアはグリエルモに準備させた風呂へ浸かり、しばしの忘却を満喫する。日頃からグリエルモの奇行に悩まされているだけあり、こうして一人何も考えずに過ごす事が最大の休息だとソフィアは感じていた。
 しかし、何故自分はこうも変人ばかりを引き寄せてしまうのだろうか? 父親は徳の高い人物ではないし、自分の行いもあまり誉められたものではない。だが人の巡りは明らかに底辺を突き進んでいる。様々な種類の変態を生で見てきたため、世界を一周する頃には図鑑が一冊出せるかもしれない。いや、そんな偏った濃い人生は心底御免だが。
 やがてのぼせそうになったソフィアは、すっかりふやけきった姿で風呂から上がる。服もあらかじめ部屋に備え付けてあった着心地の良い寝具へ変え、濡れた髪を拭きながらゆっくりと溶かしつつ、グリエルモの奇怪な歌に耳を傾ける。そんなくつろぎの最中、不意に部屋のドアが外からノックされた。おそらくルームサービスだろうが、少し時間がかかり過ぎたようにも思う。まさかグリエルモがアホな注文をしたのではないかとソフィアが口元を厳しく結んだ。
「グリー、ちょっと代わりに出て。今手が放せないから」
「お任せあれ」
 早速言われた通りにドアを開けるグリエルモ。そこには爽やかなデザインの制服をまとったホテルマンがワゴンを引きながら笑顔を向けていた。
「大変お待たせしました、ルームサービスです」
「うむ、御苦労。チップに小生の新曲を聞かせて進ぜよう。『ああー、豚は二度死ぬ』」
 いきなりグリエルモの歌声が聞こえてきた事で、ソフィアは慌てて洗面室から顔を出した。
「ちょっと、迷惑だからやめなさい。あ、それ、ありがと。チップは後でまとめるから、下がってくれて構わないわ」
 そうホテルマンに話すソフィア。しかし、彼は何故かその言葉には従わずその場へ居続ける。
 何のつもりだろう、と訝しんでいると、やがて彼はおもむろに制服の帽子を脱いだ。
「嫌だなあ、僕ですよ。気づきませんでした?」
 帽子のつばに隠れていたのは、意外にもマルセルの顔だった。別室に案内されたはずのマルセルが、何故かホテルの従業員に扮している。本来なら驚くべきシチュエーションなのだろうが、ソフィアは解れていた疲れがにわかにぶり返すのを感じつつ、露骨な溜息をついて見せた。
「……あんたってさ、つくづく付きまといの天才ね」
「これは単なる趣味ですよ。こうやって様々な業種の現場に忍び込んで体験する事で、脚本の演出にリアリティを出すんです。いやあ、色々潜入したなあ。王宮は流石にシャレにならなかったけど」
「劇作家とはみんなこうなのかね? 誇りでは無く趣味に命を懸けるとなどとは、何とも愉快千万」
「アンタも人のこと言えないでしょ」
「あっはっは、お二人は面白いだけでなく仲が良いですねえ。さてそれでは、今後の作戦会議と参りましょう。色々と口裏も合わせておかないといけないですからね。まずは現状伝わっている役回りの確認から」
「だから、お前が仕切るなって。赤の他人のクセに」