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 思い出すだけでも吐き気がする。
 今日起こった出来事は、まさしくそう表現するに値する事件だった。有名デザイナーとやらに見せられた珍妙な衣装の寸法合わせで既に疲れ切ったのだが、法律という厄介な拘束を受ける契約手続きがその後に続いたため、出来る限り自分が有利になるようにと尽力し、そこで全ての力を使い果たした。だが、後々に契約そのものを交わしてしまった時点で自分の実質的敗北である事に気が付き、そして昨日と同じホテルの部屋で疲れ切った体をベッドへ投げ出し、うとうとしながら後悔を噛み締めていた。
 だが、リビングの方から無遠慮にマンドリンを弾く音が聞こえ度々意識を引き戻されたため、遂に堪り兼ねたソフィアは寝室から飛び出し怒鳴り込んだ。するとそこには何やら熱心に作曲作業に打ち込むグリエルモと、別室に部屋があてがわれているはずのマルセルの姿があった。グリエルモはともかく、ここにいてさも当然といったマルセルの態度にソフィアは余計苛立ちを覚える。
「ちょっと、うるさいんだけど。人が疲れて寝てるのにさ。どうして疲れてるのか理由まで説明しないと駄目なの?」
「やあ、ソフィ。実はね、明日にライオネルへ楽曲の提供をしなければいけないのだよ。もうちょっとで編曲が終わるから我慢して欲しいな」
「提供だ? 何でそんなことしなくちゃいけないのよ。向こうで用意するでしょ、そんなもの」
「ああ、それはですねソフィアさん。僕がライオネル氏とグリエルモさんの契約を取り結びましてね。お二人のセルフプロデュースという形でデビューして戴くという」
 唐突に口を開いたマルセルの突拍子もない言葉に、ソフィアは思わず声を荒げた。
「ふざけるな! 私を笑い者にするつもり!? あのさ、こいつの音楽がどういうものか知ってるの!?」
「無論。それはそれは素晴らしいもので。同じ創作家として感動を禁じ得ない」
「いっぺん頭のネジ、絞め直す?」
 ソフィアは苛立ちのあまり、やにわに暖炉の火かき棒を手に取って構える。たちまちマルセルの表情は恐怖に凍り付いた。ソフィアが平然とそれを振り下ろしてくるような人間だと知っているからである。
「ちょっ……ソフィアさん、少々夜風にでも当たりましょう。ほら、今夜はとてもいい月が出ていますよ」
 直後、何やら思わせぶりな目配せをしつつベランダへと逃げていく。そのサインをグリエルモには聞かせたくない話があると解釈したソフィアは、溜息をつきながら自らもその後を追ってベランダへ出る。一方、今のやり取りを首を傾げながら聞いていたグリエルモは別段理解するというよりも興味が楽譜の方へ向かっているため、すぐにマンドリンの方へ意識が戻った。
 今夜の天気は穏やかではあったものの、部屋のある階が非常に高いせいか風はいささか強く当たってくる。肌寒さを覚えソフィアはそっと肩を抱き、なるべく風に当たらぬようベランダの入り口の傍に陣取った。
「あのですね、ソフィアさん。僕だって考えなしで契約した訳じゃあないんですよ? 確かに今回の事は僕の保身のためですから、それに巻き込ませてしまった事にだって申し訳ないと思っていますし」
「ふうん、殊勝な心がけね。けど、私って損得勘定で動く人間だから、泣き落としは無駄よ?」
「知ってますよ、それぐらい。ソフィアさんはいつも保身が第一、その次がお金で、無償の人助けなんてあり得ないと思うタイプでしょうし。とにかく、僕にはちゃんと考えがあるんです。そんなソフィアさんでも納得がいくような」
「随分な言いようね。それで、何? その考えって」
 マルセルはベランダの手すりにそっと両肘を置くと、おもむろに夜空を見上げ、そして溜息をついた。如何にもと言いたくなる、臭い芝居。いちいちそういう仕草が伴わなければまともに会話が出来ないのかと、俄かにそこから突き落としたい衝動に駆られる。
「グリエルモさんの事なんですが……あの人って人間ですか?」
 それは、グリエルモの正体が人間以外の別なものだと仄めかしているのだろうか?
 だが、相手は力ずくでも押さえ込めるマルセルであるせいか、別段ソフィアは焦りを抱かなかった。しかも、マルセルはわざわざ気取った態度で御誂え向きの位置取りもしてくれている。
「見た通りよ。それが何?」
「いえ、とても同じ人間とは思えない感性と言いますか……。有体に言いますと、音楽の才能は無いのでは?」
 思わせぶりな素振りを見せたかと思えば、そういう意味での質問か。
 ソフィアは安堵も無くただ肩をすくめ微苦笑する。それが極普通の人間の反応である。本人は情熱だけは人一倍あるものの、そこから生まれる音楽はたとえ素人であろうと到底大成するとは思えない酷く破綻したものだ。ただ、人間よりは寿命が長く修行もそれだけ多く積めるのだから、本人が心変わりしなければ何か進展はあるのかもしれないだろうが、それでもあくまで希望的観測である。
「知ってるわよ、そんなの。ただ、楽器が弾けるから一緒にいるだけ。ボディガードも含めてね」
「でしょうね。あれは最低ですよ。本当に酷い。あれほど不愉快な歌詞や歌声なんて、普通の人間じゃ絶対に有り得ないですよ。悪意が無いから尚更」
「あんたも普通じゃ有り得ないほどの馬鹿だと思うけどね。で?」
「ソフィアさんは、さっさとこの街を出て行きたい訳ですよね? けど、ライオネルさんに捕まってしまった」
「正確に言えば、あんたのせいで厄介ごとに巻き込まれたのよ」
「まあまあ。それでですね、どうすればソフィアさんが出て行けるようになるかと考えまして。一番良い方法がさっき言ったグリエルモさんの音楽なんですよ」
「どういうこと?」
「ライオネルさんは、ソフィアさんにあれだけ入れ込んでるのだから期待も相当大きいでしょう。それなのに、実は音楽も踊りも最悪だと知ったら、期待外れどころか幻滅すらすると思うんですよ。一方的に契約を破棄してくるかもしれません。どうせ報酬は歩合制ですからね。そうなれば、円満に破局すると思いません?」
「理に適っちゃいるとは思うけどさ。なんだろう、私が失うものが酷く大きいような」
「嫌だなあ。ソフィアさんはお金のためならそれぐらい平気でやるでしょう?」
「品性までお金にするほど落ちぶれちゃいないわ」
 しかし、確かにマルセルの言う事は理に適っている。あれだけ一方的に入れ込まれては、こっそり逃げ出すのもそう簡単な事ではない。たとえ街から逃げ果せた所で、この先あの連中の影を意識させられるのは非常に精神的な負担である。仮に追っ手が向けられ万が一捕まえられでもすれば、それこそ今度は穏やかな事では済まなくなる。だったらいっそ小細工を使わず、真っ向から勝負し愛想を尽かされた方がずっと身の安全が保証できる。ただそれは、自分にとって本業とは正反対の事を、意に反して行うという屈辱に耐えなければいけないという事だ。さすがにこればかりは精神的に辛い。辛いが、そうでもしなければこの先更に辛い目に遭うのだ。
「とりあえず、仕方ないからそれに乗ってあげるわ。ただし、お願いだからこれ以上面倒ごと起こさないでね」
「大丈夫、分かってますって。でも、その代わりと言ってとは何ですが」
 するとマルセルは、急に空かした態度を卑屈な前屈み姿勢に変え、そのまま上目遣いでソフィアの傍へ擦り寄って来た。
「何よ」
「タダ働きってのもね。ほら、ソフィアさんはこの街から出てしまえばそれでいいですけど、僕には白豚が」
「身から出た錆じゃない」
「そこを何とか。これぐらい戴ければいいんです。借金さえ返せれば、僕もこの街で生きていけますから。ね? 助け合いですよ、助け合い。貰った分だけの働きはいたしますよ?」
 マルセルに提示されたその額、決して安くは無いが、今のソフィアの手持ちならば余裕を持って払える額。だが、そもそもこの状況はマルセルの身勝手に巻き込まれた結果によるものであり、たとえはした金でも張本人へ渡すのはいまいち気が引ける。かと言って、確かにマルセルの言う通りに金を渡して言う事を聞かせておけば、少なくとも歩調が崩れ破綻する事もない。
 お金で味方が買えるなら安いものか。
 背に腹は変えられぬとばかりに、ソフィアは溜息をつき渋々と了承の意を示した。
「分かったわ。その代わり、前金で二割、残りは成功報酬よ」
「了解いたしました、御主人様。御用がありましたら何なりとお申し付け下さい。もう犬と呼んじゃってワン」
「……とりあえず、腹の居所が良くないから殴らせてくれる?」