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 日々のスケジュールは一時間ごとに決められた挨拶回りと、日替わりで朝夕に行われる専門家のレッスンで構成されている。あれからのソフィアの毎日は、分単位で作られたそれに追われるように過ぎていった。日に日にストレスは溜まり食欲も失せ、自分でも分かるほど疲れが出ている。それに比例してマルセルは生傷が絶えないようになり、好きなだけ作曲活動に打ち込めるグリエルモだけは一人生き生きとしていた。
 これまでソフィアは普段の反骨的ななりを潜め、ただ言われるがままライオネルの要求する人物象を演じていた。人の言いなりになるのはソフィアの性格からは考え難い事だったが、全てはライオネルが定めた一週間後のオープン記念祭のためである。当日のメインイベントで、公聴の前で思い切りグリエルモの筆舌し難い最低の曲を披露し、イベントそのものを混乱させ自らのイメージダウンを計る。そうすれば失望したライオネルから契約が打ち切られ、晴れて自由の身となるのだ。それまではあえて針を飲むような思いと戦わなくてはいけない。
 その晩も、ソフィアは住み慣れ始めた部屋へ疲れきって戻ってきた。それからすぐさまグリエルモに風呂を準備させ、その間は換金した紙幣の束を眺め精神の充足を図る。
 風呂から出るとグリエルモは相変わらず熱心に作曲へ励んでいた。
「どう? うまくいってる?」
「順調だよソフィー。きっとみんなが愉快な気持ちになれる名曲になるよ」
「へえ、どれどれ」
 自信たっぷりに話すグリエルモ。ソフィアはその自信作という歌詞へ目を通してみる。
「『さあみんなで歌って踊ろう、でないと頭をかち割るぞ』いいわねえ」
「必ず楽節の始めにそれを入れて、心地よいリズムを作り出すんだ。締めの句にも似たリズムで違う歌詞を使うんだよ」
 実に期待通り、ここへ音楽がつけば最悪の気分に浸れること請け合いの出来映えである。
 普段なら一笑に付して破り捨てるそれも、今だけは逆に期待に適った名曲に思えてくる。心なしか心強いパートナーにすら錯覚してしまうほどだ。いつもの事とは言え、グリエルモの方は何ら心配は要らないだろう。自信があると言っているのだ、出来映えは確実にその正反対へ向かう。
 グラスに冷たい水とレモンスライスを浮かべ、ソフィアはソファーにもたれながらゆっくり今後を画策する。
 明日からいよいよオープニングイベントのリハーサルが始まる。グリエルモの曲は間に合わないだろうが、元々本番まで隠しておくものだから問題はない。面倒事を起こすマルセルも金を払ってからはおとなしくしており、この分なら当日まで心配する事はないだろう。
 となると、当面の問題はこれか。
 ソフィアはテーブルの上に置いていた小冊子を手に取り表紙を眺める。オープニング記念祭リハーサルと題の押されたそれは、今日の別れ際にいつの間にかプロデューサーなる肩書きを兼任するようになったマルセルから渡されたものである。
 改めて考えてみれば、オープニングイベントとは何をするものなのだろう?
 耐える事ばかりに意識が向いていたソフィアだったが、不意にそんな疑問符を浮かべた。
 ライオネルは自分を神竜会のイメージキャラクターにしようとしている。しかしそのキャラクターで何をするのかはまだ具体的には聞かされておらず、ただ漠然と歌なり踊りなりの稽古に勤しんでいるのが現状だ。
 人前で大々的に何かをやるのは確かだろうが、それはいつ、どこで、何のために、どういったシチュエーションで、そういった背景が一切知らされていない。いや、正確に言えばその具体的な内容がこの小冊子に記されているのだろうが、今になってそれが提示されるのも奇妙と言えば奇妙である。
 今更ながら緊張感を覚えるソフィア。不安や恐怖から来るものではあったが、それは決して無理難題に対する感情ではない。これ以上の難題をぶつけられ、堪忍袋の緒が耐えてくれるかどうかへの不安感である。そう、いざとなれば多少人目につくのは覚悟の上で、グリエルモという爆弾を使えば済むからだ。出来ればそれは使いたくはない、そういう都合の問題である。
「ん?」
 その時、突然ドアが外からノックされる音が聞こえてきた。
 この時間に此処へ来るのは、おそらくマルセルだろうか。
 そう思ったソフィアはグリエルモに鍵を外させようとするものの、グリエルモが作業に夢中で気づかず、せっかくあれほどのものを作っているのだから邪魔するのも悪いと思い、ソフィアが自ら腰を上げた。
「誰、こんな時間に?」
 面倒臭そうに鍵を外しドアを開けるソフィア。しかし、
「よう、探したぜ」
 そこに立っていたのは、驚くことに白スーツ姿に小太り体型という独特の風体を持ったカーティスだった。
 反射的にドアを閉めようとするソフィアだったが、そのドアはカーティスの部下である黒服達に押さえあっさり阻止される。無謀な力比べを挑んではみるものの、屈強な男達が相手ではまるで歯が立たない。
「長居はしねえから心配するな」
 それを後目にカーティスは悠然と室内へ入ってくる。だが、この騒ぎにもグリエルモは相変わらずで、一心不乱にマンドリンを掻き鳴らしている。悲鳴の一つも上げれば反応するのだろうが、それはかえって状況を混乱させかねないため、仕方なくソフィアは全員を招き入れてからドアを閉めた。
「よく入れたわね。ここ、神竜会のシマなのに」
「元は俺のだ。看板は取られても、一人二人はまだこっちに義理立ててくれる奴がいるものさ」
 そいつらの手引きで入り込んだ、という訳ね……。
 明日にでも宿を変えて貰おう。そうソフィアは溜息をつく。
「で、何の用? マルセルなら別室よ。案内してもいいけど」
「あの馬鹿は後回しだ。今日はもっと重要な話があって来た」
「そういうの間に合ってるわ。もう厄介事は沢山。私達に構わないで」
「このまま黙って街を出てってくれるなら一向に構わんさ。だがな、お前等があの神竜会に与するってなら話は別だ」
「仕方ないでしょ、好きでつきまとわれたんじゃないんだから。こうでもしないと離れられないのよ」
「うるせえ、関係あるかよ。俺は知ってるんだぞ。お前がドラゴンキッスに関わってる事はな」
「は、何それ?」
「お前ら、あいつらが何をさばこうとしてるのか忘れたのか?」
「ああ、はいはい。あの薬ね。別に関わってないけど。私は人前で歌って踊るだけだもの」
「ったく……何も分からねえで引き受けたのかよ」
 呆れを通り越し、怒りの表情すら覗かせるカーティス。しかし、苛立っているのはソフィアも同じだった。こんな夜更けに転がり込んで来るばかりか、訳の分からぬ事情で嫌味を並べられる謂れなど無い。ソフィアの主観がそうあるからだ。
「いいか、よく聞け。この街では月に平均十人前後が行方不明になる」
「どうせマルセルみたいな駄目な奴でしょ?」
「そうだ。だが今月はもう百人だ。神竜会が来てからいきなり増え始めた。これは明らかに不自然な推移だ。けれど、その証拠が無い。だから誰も大事に出来ずにいたんだが、その証拠を俺達が遂に見つけたんだ。神竜会が言い逃れ出来ない確かな証拠をな!」
 興奮のあまり、カーティスの言葉の語尾が大きく上擦る。それでようやく気づいたグリエルモがマンドリンを弾く手を止めた。
「見つけたのは、神竜会の管理物件に監禁された行方不明者達だ。それも大方素性の裏は取れている。あるか? これ以上の証拠がよ」