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 リハーサルも無事に終了、歌も振り付けも申し分の無い状態まで仕上がっている。普段の営業で歌うようなテンポの良い曲が四つ、全く知らない曲ではあったもののほとんどが似通った曲調だため、比較的楽に覚えることが出来た。振り付けも、元から曲さえ覚えればすぐ覚えられるため、それほど苦労は無い。
 演出はどれもそれなりに出来が良く、思っていたよりも露骨な洗脳的要素は無かった。そのせいでいささか拍子抜けしたかと思いきや、問題はその後に続く台本にあった。それは、ただただ酷いの一言に尽きるものだった。ようやく本性を現したかの如く、これでもかと見るに耐えない単語が続く危険思想の見本市である。これらを口にし観客を煽る自分の姿など、想像するだけでもおぞましい。だが逆に考えると、この台本はイベントの要がここだけにある明確な理由にもなる。観客を煽るという行為においてする事は同じなのだから、それをそのまま置き換えれば済む話である。
 遂に本番当日、グリエルモの腹芸には何度も冷や冷やさせられて来たが、どうにかライオネルにも勘付かれる事無く無事にこの日を迎える事が出来た。後は自らが越えなければならない最後の山場一つだけである。
「さて、と……」
 姿見の前で一人集中力を高め、最後の確認を済ませる。表情はいささか硬いものの、努めて笑顔を作ってみればライオネルの要求する鋭さを交えた微笑は極自然に顔へ張り付いた。
 人前に立つ事は慣れているが、これほど緊張する舞台は久しぶりである。それも当然だ、失敗すれば恥をかく程度では済まない、人生そのものが左右されかねないとんでもない状況へ陥るからである。仕事を始めたばかりの頃の緊張は単に恥をかきたくないというものだったが、生死に直結するこの状況では何度繰り返し慣れていたとしても緊張しない方が異常と言える。少なくとも人前で歌い踊る事そのものが楽しく思うソフィアには、こんな異質な舞台も余興と楽しめるような大胆で鈍感な性格ではない。
「グリー、いる?」
 誰も居ない楽屋から、そう小さな声で呼びかける。するとすぐさま、部屋のすぐ外で待機していたグリエルモが楽屋の中へこそこそと空気を読んだかのような素振りでやって来た。普通の話し声は部屋の外からは聞こえるはずも無いのだが、グリエルモの聴覚は人間のそれとは比べ物にならないほど優れているため、普段の当たり前にする会話のように聞こえるのである。
「近くには誰かいた?」
「猿が一匹いるよ。小生に馴れ馴れしい態度を取るから、作戦が終わったらぶん殴ってやろうと思うんだ」
 それはおそらくマルセルの事だろう。
 基本的にグリエルモは人間を自らより格下の生物としか見ない。そのため顔と名前を一致させ個々を認識するという事をしないばかりか、馴れ馴れしい者や自分を否定する者には特に強く嫌悪感を覚えるため、常人なら考えても躊躇い実行に移さない事を平然と行ってしまうのである。
「非暴力主義はどうしたの? 音楽で解決するっていつも言ってるじゃない」
「近頃、猿共には適用しない方がいい気がするんだ。そもそも、小生の高尚な音楽を下等生物に理解させる事自体が間違っていたんだ」
「簡単に信念をころころ変えるようじゃ、世界一の音楽家にはなれないわよ。音楽とは上へ昇るもので、低い方へ流れないの」
「分かった。ソフィーがそういうなら、やめておく」
 そう言ってグリエルモは、何の前触れも無くソフィアを抱き寄せいとおしげに頬擦りする。だがせっかくのメイクを崩されたくなかったソフィアは、グリエルモの頭を掴み背中側へぽきりと首を折り曲げ引き離した。それでもグリエルモはへらへらと緩んだ表情を覗かせていたが、一度ソフィアが奥歯をかちりと鳴らし睨みつけると、すぐさま風船が萎むようにトーンを落とし大人しくなった。
「本番が始まったら、私はもうグリとは連絡が取れないから。出来るだけ近くで待機しててね。ちゃんと私が見える所で」
「小生はいつも君を見ているよ。君は小生の太陽、僕はそれを見つめるヒマワリ」
「観念的な話じゃなくて。とにかく、これから何が起こるか分からないから、いざという時はお願いねってこと」
「無論、任せたまえ。ソフィーに指一本触れようとする輩がいれば、首根っこ掴んで引っこ抜いてくれる。『それがー愛の形ー』」
「前から思ってたんだけどさ、非暴力主義とか嘘でしょ?」
 そんな事は無いよとむくれて見せるグリエルモ。そこへ更に反論をしようと口を開いたソフィアだったが、
「ソフィアさーん、会場の準備が整いました。出番お願いします」
 突然楽屋のドアが開くと、呼び声と共にスタッフがやって来た。
「はい、今行きます。じゃあ、そういう事で宜しくね」
「……どうせ、小生なんて駄目人間なんだ」
 いきなり落ち込み出すグリエルモ。そんなに冷たく当たった覚えは無いのに、と首を捻るソフィアだったが、衆目がある時は終始落ち込んだ演技をしろ、と言ったのは他ならぬ自分であった事を思い出し小さく頷いた。別段、そこまで徹底する必要は無いのだが、グリエルモは黒白でしか物事を判断出来ない、融通が利かない性格である。ずば抜けた長寿であるため物事を大雑把に考えるせいか、細かな状況判断はほとんど出来ないのだ。