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『皆様、大変お待たせいたしました!』
 ステージは驚くほどの熱気と興奮に包まれていた。もっと気だるい倦怠感に溢れた病的な光景を想像していたソフィアは、意外な熱狂ぶりに幾分か驚き登壇する足をしばし止める。しかし、どう見ても常軌を逸している観客の姿から察するに、もしかすると既にドラゴンキッスが配られている可能性もある。いわゆる呼び水のようなもので、最初の印象を強烈なものにしておこうという意図だろうか。無論そうでなくとも、精神的には限界まで追い詰められているのだから、精神がとうとう一線を越えてしまい、それが周囲に連鎖反応を起こしてもおかしくはない。
『さあ、皆さん。拍手でお迎え下さい!』
 そう司会進行へ煽られるまでもなく、既に観客は熱狂し拍手を惜しまなかった。これまで観客に冷遇される事は数知れなかったが、ここまで露骨な歓迎を受けたのは初めての事だった。そのせいか、あまりに馴染みのない客層にソフィアは戸惑いを膨らませる。
「みなさーん、こんばんわー!」
 直後、まるで示し合わせたかのように場内から返答の大合唱が返ってくる。あまりに迫力にたじろぎそうになるものの、ここで自失しては元も子もないため、頭の中で観客達を貨幣に置き換え笑顔に努める。
 一様に、ステージ下から注がれる無数の視線。見られる事には慣れているはずの自分には何でもないもののはずなのに、今回ばかりは皮膚を刺されるように錯覚してならなかった。
 何故、自分はこうも注目を受けているのだろうか? 既に救世主だのとアナウンスされているのだろうか? 少なくとも自分の容姿は、人を変えさせる教祖のようなカリスマ性とは無縁のはずだが。
『さあ、歌って頂きましょう! 御声援宜しくお願いいたします!』
 何にしても、今は余計な事を考えず観客を自分の言いなりになるまで引き付ける事が急務だ。何もしなくとも向こうから勝手に注目してくれるのなら、それに越した事はない。
 短くテンポの早い前奏から入り、ソフィアは普段よりも声を奥まで通す事を意識しながら歌い始める。すると、同時に場内では観客がそれに歌い続き始めた。一体何時の間に覚えたのだろうか、そう驚く間もソフィアは声に動揺を出してはならないと曲に専念する。
『ソフィア! ソフィア!』
『こっち! こっちにも視線お願いします!』
 まさに亡者の群である。どこもかしこも熱狂する観客の束ばかりで、むしろ自分の方が正気ではないようにさえ思えてくる。しかし、人は追い詰められるとこんなに脆いものだろうか。半ば騙されて連れてこられたというのに、目的を見失いこんな茶番劇に熱狂しているなんて。
 場当たり的な行動でこんな事に巻き込まれてしまった自分も人の事は言えないだろうが、己の命の危険さえ見失って熱狂する観客には同情すら覚えてくる。
 プログラムは滞りなく進む。元々たった四曲のミニコンサート、そこに全力を注いでいる訳ではないが、そうでなくとも観客は一挙手一投足でいちいち歓声を上げるほど盛り上がっているため、生来の商売肌からか自然に適度な手抜きをする。そうして生まれた余力の中、よくよくこの状況を追っていくと、やはりどうしても目に付くのは観客の異常な興奮だ。
 なんか……変よね。なんだろう、この違和感。
 少しずつ自分の中で膨れ上がっていく言い知れぬ感覚にソフィアは眉を潜める。自分の役割は、精神的に追い詰められ自分を見失った観客を扇動する事にある。つまり、助けの手を差し伸べる立場にある。だが、騙され監禁され精神的に追い詰められているはずの観客は、パフォーマンスの要求こそするが救いを求めてくる者は一人としていないのだ。
 こいつら……本当に助けて欲しいとか思ってる? とても誰一人助けて欲しそうには見えないんだけど。
 微かな疑問だがカーティスの扇動作戦に見過ごせない亀裂が走ったと判断したソフィアは、まずは自分の身の安全を確保しておこうと、さりげなく舞台袖へ目を向けグリエルモの姿を求める。しかしそこには、観客の熱気に当てられたのか興奮気味なマルセルが手を振っているだけだった。マルセルは腹芸の足しにしか使えない。今はまったく不要の存在だ。
 歌を続けながら会場中のあちこちへ視線を配りグリエルモの姿を追う。元々、長身痩躯に銀髪という目立つ外見なのだから、商売柄大勢の顔を見てきたソフィアには見落とすはずはない。にも関わらず、会場のどこを探してもグリエルモの姿は見つからなかった。どこかに隠れこっそり窺っている可能性も考えたが、そういう心配りが出来るほどグリエルモの自己顕示欲は生やさしいものではない。
 どこ行ったのよ、あの馬鹿……。
 人の言いつけの半分は理解出来ず、もう半分は守る事が出来ないグリエルモだが、こと自分に関してだけは必ず必要以上に固執し守ってくれると信じていたのだが。
 そんな落胆と、それを上回る不透明な危機感が重なる最中、遂に最後の曲が終わってしまった。そして、場内には最高潮を迎えた歓喜と歓声が一気に迸った。かつてない会場の勢いにソフィアの頬には冷たい汗が一筋伝う。
「あ、はは……」
 自然と小さな笑いの溜息がこぼれる。
 自分の考え過ぎ、勘繰り過ぎならば、それに越した事はない。しかし、もしも前提そのものが間違っていたのなら、カーティスの作戦など何の役にも立たない事になる。自衛第一に徹するに当たり、想定外の出来事はむしろあるべきではないのだ。
 もはやこの観客は暴徒と一緒である。柵を乗り越え直接手を出してこないだけで、一度堰を切れば雪崩のように押し寄せてくる凶暴性をそのまま熱狂と歓声に変換しているのだ。
 さて、事態はまた面倒になった。グリエルモの所在も分からず、もはや煽るまでも無いほど熱狂する観客。下手な扇動は逆に暴動を起こし兼ねず、グリエルモとの連絡が取れなければ最終手段に打って出るどころか自分の安全すら守れない。
 舞台袖からは、いつの間にかやってきたライオネルが指でひたすら前進のサインの送っている。その示す意味とは即ち、台本の続きを行け、という事だ。
 打ち合わせでは、ここでカーティス達へ合図を送って曲どころじゃない騒ぎを起こしてぶち壊しにすることになっているのだが。こんな状況で騒ぎを起こした所で、熱狂し過ぎた観客には何の効果もないだろうし、下手をすれば逆に返り討ちに遭う危険性もある。そうなると、後は自分は台本通りに教祖の真似事のようなことをしなければいけない。
 もはや予定は変わってしまった。状況は予想外だが、少なくとも観客は自分についてくる。ならば、間をすっ飛ばすが結末だけでも帳尻合わせをしてしまうしかないだろう。
 腹を決めたソフィアは静かに深呼吸する。そして―――。