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「みなさーん、静かに! 私の話を聞いて!」
 腹の底から搾り出した、だがそれらしい声色は損なわずに、ソフィアは自分の声をあらん限りに会場中へ広げた。ソフィアの何倍もの声量で歓喜する観客達は、何故かたった一度のソフィアの呼びかけをあっさりと聞き分け、瞬く間に会場中がしんと静まり返った。鼓膜にびりびりと浸透する歓声にいささか怯んだものの、この突然の静寂にもまた別な恐ろしさが感じられる。こういうギャップで突かれると心理的に弱い。
 驚くほど素直にこちらの言う事を聞いた観客に若干の恐ろしさを感じつつ、ソフィアは頭の中で何度かこれから口にする言葉に間違いがないかどうか反復する。無論、その間違いとは台本に添っているかどうかではない。最終的に自分の望む結果に繋がるかどうかだ。
「今日は私のためにここへ集まってくれてありがとうございます。それで実は、突然ですが皆さんにお願いしたい事があります」
 なんですかー、と誰かが顔も識別出来ないほど遠くから問い返す。それ以外は耳が痛いほどの静寂ばかりで、先程の熱狂は視線だけに集約されている。
 ここからはいよいよ台本には無い領域である。ステージには小劇場のように幕がある訳でもなく、ハプニングに対しての対処は直接手を下す以外にはないだろう。周囲に控えるスタッフは三人、内一人はライオネルである。それ以外にマルセルはいるが、どうせ壁としての役割は道端の立て札にも及ばないだろう。つまり、勝敗の分かれ目は如何にして自分の言葉を迅速に観客へ浸透させるかにかかっている。ただ言うだけではない、動かすだけの明確さと説得力が重要なのだ。
 ここが最後の引き返し可能な地点である。もう一度だけ肝を据えている事を確認すると、ソフィアは台本には無い言葉をはっきりと口にする。
「実は私、ここで歌うのは今日が最初で最後になるかもしれないんです」
 直後、驚きに満ちた声が場内を駆け巡った。そして次々と理由の如何を訊ねる声が飛び出す。明らかに不満を持った反応、それにソフィアは内心で安堵する。だが、舞台袖のライオネルは表情を僅かに訝しげに変え、舞台上のソフィアと手元の台本とを交互に見合わせ始めた。突然の行動に驚きを隠せない様子である。
 まだ大丈夫、ライオネルは軽く疑問に思った程度だ。ライオネルの様子を一瞥し、ソフィアは更に続ける。
「私の両親は悪い友人に騙されて、多額の借金を抱えています。家には毎日のように借金取りがやって来て、私は子供の頃からずっと家の奥に隠れて育ちました。お父さんもお母さんも共働きで借金を返そうと頑張っていました。ですが昨年、お父さんは危険手当の出る危ない作業をしていて事故で亡くなってしまいました。そしてお母さんもその後すぐに病気で倒れてしまって。もう私がお金を稼いで借金を返さなければいけなくなったのです」
 観客達は再び静まり返る。その静寂はただの沈黙よりも重く、何も言葉が出ないという重苦しい雰囲気を伴う静寂だった。こんな見え透いた作り話をそう簡単に信じ込むだろうかという不安もあったが、ソフィアの告白を疑っている人間は一人としていない様子である。
 ようやく異常事態である事に気づいたライオネルは驚いた表情で問おうとしてくるものの、この会場の雰囲気では口を噤むしかなく、焦りで浮かんだ汗の玉をハンカチでそっと拭い不安げに舞台を見つめる。
「こんな私を助けてくれたのは、この事務所の社長でした。うちで一生懸命頑張って働けば借金ぐらいはすぐ返せると、私達一家の借金も全て請け負ってくれたんです。おかげで借金取りはうちへやって来なくなり、お母さんの治療費も何とか払えるようになりました」
 異様な身の上話が自分を持ち上げる話に変わり、身に覚えのないライオネルは更に困惑の色を深める。傍らのスタッフがソフィアを止めようかと視線で訊ねるものの、社のイメージを損ねるものではないからとライオネルは首を横に振る。未だ実力行使に出る気配のない彼らの様子を窺い、ソフィアは遂に核心部分を打ち明ける。
「ですが、今思えばそもそもの間違いはこれでした。私はこの後、人買いに売られてしまうんです」
 会場から驚きの声が上がる。ソフィアは更に言葉を続けた。
「実は初めから社長と借金取りはグルだったんです。その上、私のように売られていった女の子も今までに数え切れないほどいて……。みんな借金という負い目があるからずっと言い出せずにいたんです!」
 徐々に声は涙声になり、口調も一変し強く荒ぐ。無論、それはソフィアの迫真の演技だった。しかし、ソフィアの二秒で絞り出せる本物の涙に会場中の観客が強く胸を打たれ息を飲み、深い同情の念が瞬く間に広がる。だが、舞台袖のライオネルはそれどころではなかった。またもや身に覚えのない事で、今度はとんでもない悪人へでっち上げられたからである。
 さすがにこれ以上は傍観出来ない。慌ててライオネルはスタッフと共に舞台袖から飛び出した。
「ソフィアさん!? 何をやってるんですか!」
 いきり立ってソフィアの肩を掴み、これ以上の暴挙を阻止せんとばかりに、すぐさま舞台袖へと引き摺り落としにかかる。するとソフィアは意外なほど無抵抗で、しかもか弱くもあっさりステージ上に転倒してしまった。ソフィアの性格から強烈な抵抗を受ける事は覚悟していたのだが、あまりに拍子抜けする抵抗の無さに眉を潜めるライオネル。だが程無くして、自分の取った行為は非常に軽率だった事に気付くと、容易に想像出来る次に起こるであろう出来事を想像し顔から血の気が引いてしまう。
 そしてソフィアは、そんなライオネルの想像を見透かしたかのように、出来る限り同情を引く悲痛な表情で倒れながらも弱々しく抵抗する素振りを見せた。
『ふざけんな、バカヤロー! 今までのは全部そういう裏があったのかよ!』
『よくも騙したな、このエロ社長め!』
『ソフィアちゃんを離せ、お前なんか檻にぶち込まれろ!』
 次々とライオネルへの非難の言葉が飛び交う。この全く予想だにしなかった状況にライオネルとスタッフ一同の表情は完全に凍りついた。しかしライオネルはすぐに観客達へ静聴を求め何とか弁解を試みようとするが、一番やってはいけない事を衆目でしてしまったため誰一人としてライオネルの言葉に耳を貸す者はいなかった。
 観客はもはや一触即発。機は熟した。
 ソフィアは仕上げとばかりに、精一杯悲壮感を込めた声で観客に呼びかけた。
「お願い! 誰か私達を助けて!」
 そして、その叫びに会場中の声が応える。