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 ソフィアは都会生まれであるため、極一般的な自然災害については伝聞程度しか知らない。海も定期船の出る凪しか見た事が無く、そこに数多くの生き物が棲息している事は元より、これが時に人間の生活を脅かす脅威をもたらすなどとはまるで想像もつかなかった。
 この光景はまさに、新聞で見た遠方で起こった災害の再現画そのものだった。あの熱狂した観客達が津波のような勢いでステージへ駆け上がって来たのである。
 殺気立った群衆の迫力は凄まじく、ライオネルとスタッフはすぐさま舞台袖へ駆け込み逃げ出していった。その後ろ姿は群衆を更に興奮させ、一層殺気の色を強める。
 そこでふとソフィアは気が付いた。この異常に殺気立った群衆は、統率出来なければただの暴徒であると。
『あの社長を逃がすな!』
『ソフィアちゃんは保護しろ!』
 血走った目で主張する保護など到底信用に足るものではなく、この状況は自分の身に危険が迫っている他の何物でもない。
「……やば」
 すかさずソフィアはライオネルの後を追うようにその場から逃げ出した。この建物の構造を完全には把握していないものの、ライオネルの後を追いかければ間違いなく安全な場所へ避難できるはずである。
 作戦通りと言えば作戦通りである。焦点だった観客の扇動は確かに成功と呼べるだろう。だが、観客達はこちらの思惑以上にあまりに自分の言葉を信じ過ぎていた。自分でも正常な思考力があるのなら少なからず訝しんで当然と思う言葉、これのどこにここまで駆り立てさせた説得力があるのか想像が付かない。
 ステージの裏手へ回り、途中沿いに楽屋のある廊下をひたすら駆けるライオネルとその側近。他のスタッフもこの暴動に巻き込まれているのだろうか、と不安はあったものの、すぐ後ろからは所狭しとひしめく暴徒の群が追いかけてきていては、すぐに自分以外への心配は吹き飛んだ。
『捕まえろ! 絶対に逃がすな!』
『ソフィアちゃんを取り戻せ! 権力の横暴を許すな!』
『みんなでカンパすれば借金なんてすぐに消えるよ!』
 頭が茹っている割には随分と計画的な発言が飛び交う。自分達にはこういう準備があるから安心して欲しいという意思表示だろう。しかし、ソフィアには単なる暴徒以外の何者にも見えなかった。そして当然のように暴徒からは距離を置く。幸いにも、彼らの足は取り分け速いと呼べる代物ではなかった。
「ソフィアさん、これは一体どういうことか説明して下さい! どうしてあんな事を言ったんですか!?」
 ライオネルのすぐ後ろまで追いつくと、走りながらライオネルがいきなりそう叫んできた。
「うるさいわね! こっちだって好きでやってるんじゃないわよ! あんたの同業の白豚に、神竜会が変な薬売ってるから妨害しろって事になったの! こっちは金さえ手に入ればそれで良くて、今頃ショッピングにエステ通いだったのに!」
「いけない! ソフィアさん、ファンの前で神秘性を欠く事を言ってはいけません! あなたは休日は花の蜜を吸って優雅に踊っているのです!」
「この状況でどこまでやるつもりよ! 現実を見なさい! あんたもドラゴンキッスとかいう変な薬やってるの!?」
「ちょっと待って下さい。何故ドラゴンキッスのことを知っているのか分かりませんが、これはうちの会員だけに販売している滋養強壮剤の事ですよ! 断じていかがわしい薬ではありません!」
「だったら、あの暴徒は何よ?」
「薬が軽く効き過ぎて興奮しているのでしょう。開演したらトイレに行けないので、空腹のまま飲むと時々ああなります。少しの間恍惚するだけで、その内覚めますよ」
「そんな薬、一般人が使って本当に大丈夫なの? 共犯で捕まりたくないんだけど」
「もちろんです。現在の法律では違法と指定されていない成分で精製してますから御安心下さい」
「同じ事だ、このアホ!」
 とりあえず、神竜会が演目を餌にして集めた連中におかしな薬を売っている事ははっきりした。連中は薬の購入目的というよりステージを見るためにやってきている感じもするが、その辺りの事実関係はどうでも良い。今はっきり分かっているのは、法的にはグレーな薬の販売に関わってしまった事と、このまま逃げきれなければ身の毛もよだつ連中に捕まってしまうという事だ。
『う、うへへへー。待ってよー』
『このまま天国まで連れ去ってくれるのかい? それもまたいいよね!』
 うわ言のように意味不明な言葉を叫ぶ者も数えるほど少なくない。果たしてこれは本当にまともと呼べる状態なのだろうか? 人の意識をおかしくする薬を作るなど、厳しい法整備でそれほど簡単ではないはずだが。あそこまで自失させる強い薬があるのだろうか。
「ねえ、そのドラゴンキッスって自分では飲んだことあるの?」
「まさか! 私に万が一の事があったらどうするんですか。従業員とその家族を路頭に迷わせる訳にはいきませんよ」
 きっぱりとそう言い切るライオネル。どうやら考えるだけ無駄のようである。ソフィアは思考を自身の脱出だけに傾ける。
 この状況で鍵となるのはやはりグリエルモだ。軽く煽ってやれば幾らでも調子づくのがグリエルモの性格である。後は力ずくで退路を確保、そのまま大急ぎで街から脱出するのが一番いい。グリエルモの本性を見られるが、どうせ意識がおかしくなる薬を飲んでいるのだ、憲兵はまともに取り合ってはくれないだろう。
 あの馬鹿竜め、一体どこに行った。
 グリエルモに人間の常識は当てはまらないが、流石にこれだけの騒ぎを見過ごすほど間抜けではない。少なくとも自分に身の危険が迫れば、他の何を差し置いてでも駆けつけるはずである。しかし問題は、自分の置かれている立場を正確に理解していないばかりか、現状すら理解しようとしない危機感の無さである。
 グリエルモは人間よりも耳の聞こえがいいから、いっそ思い切って叫んでみるのも一つの手だ。どうせここまでしてしまえば、今更失うプライドも無い。
 そう意を決したその時だった。
 不意に前方の廊下の角から一人の人影がひょっこりと現れた。その影はたった今どこかへ出かけて帰ってきたのか、両腕に幾つもの紙袋を抱えている。微かに立つ湯気や油の匂いから、それらが食べ物である事が分かる。
「あ、ソフィー。丁度良かった。そろそろおやつにしない?」