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「あ、あの……ソフィアさん? 何をおっしゃっているのか分かりませんが、どうか落ち着いて」
 ソフィアの豹変ぶりは、底知れぬ恐ろしさを一同へ与える。如何にも営業トークらしい猫撫で声には、まるで背中を擦り下ろされているかのような気分にさせられる。
「グリ、もういいわ。やっちゃって、全部」
「ああ、小生の太陽。君の言葉は眩し過ぎて小生にはうまく伝わらないよ」
「有り体に言うとね、全部ぶち壊して、ここから逃げるってことよ。本気出して」
「いいのかい? 後で怒らない?」
「早くやらないと、怒るわよ」
 それは勘弁とばかりに、慌ててグリエルモは扉から離れソフィアの元へ駆ける。
「えっ!? ちょっと待って!」
 閂役であるはずのグリエルモが扉から離れた事で、思わず上擦り気味の声を上げるライオネル。そこへ続く言葉よりも先に、扉の前へ押し寄せていた暴徒の群が突き破るような勢いで室内へ雪崩込んで来る。未だドラゴンキッスは抜けていないようで、どれも目の血走って鼻息の荒い異様な表情をしている。にも関わらず妙な一体感がある。興奮した人間が部屋に溢れたせいで室温が急に上がったような熱気が立ちこめる。そんな中ソフィアは、幻覚剤のせいとは言え自分の影響力もなかなかのものだ、とどこか他人事のように状況を見ていた。
「どうして開けさせたんですか、ソフィアさん! ほら、あんなに殺気立って、これじゃあ殺されますよ!」
「まだ幻覚を見てるなら、それはそれで好都合よ。それに、殺されるとしてもそれはあなた達だけでしょう?」
「な、何を急に落ち着き払って。そんな丁寧な言葉遣いも。それに幻覚剤ではないとあれほど」
 慌てふためくライオネルとは対照的に、不気味なほど落ち着き払っているソフィア。その自信の根拠は、例え何が起ころうとも自分だけは助かる確証がありからなのだろうが、それは一体如何なるものなのか、単なる理性が焼き切れた妄執ではないのか、そんな疑念が頭を過ぎる。
「さ、グリ。派手にやっちゃって。死人が出なけりゃ大丈夫だから」
「あの、ソフィー? 小生は非暴力主義者なのだが」
「その信念と、私と、どっちが大事なの?」
「それは……ソフィーに決まってるけど」
「じゃあ、さっさとやりなさい。それに、暴力というのは人に当てるから暴力なのよ? 誰も叩かなきゃ、何をしても暴力にはならないわ」
「なるほど! それもそうだね!」
 そんな暴論が何だと言うのか。まさかグリエルモが切り札とでも言うのだろうか。確かにグリエルモは人よりも腕力は強いらしい。しかしそれだけではどうにもならない数の圧倒的な不利がある。一人二人が常人離れしたところで、どうにかなるような状況ではないのだ。
 対する群衆は、茹で上がった思考にはソフィアの救出とライオネルの成敗のみ凝縮され誰一人自分達の異常性に気づいていなかったが、僅かに残った判断力が敵か味方か判断のつかないグリエルモの態度に一時足を止める。だが程なくグリエルモが暴徒の前へ進み出たため、さほど深く考えることもなく成敗すべき敵と見なした。彼らにとって自分達の行動を少しでも妨害する存在は等しく敵となる。
「さて、猿共。逃げるなら今の内だ、と警告しておこう。これは竜族の慈悲だ」
 そう語るグリエルモに首を傾げる一同。長身だが荒事とはまるで無縁としか見えないこの青年が、特別な武器もなく、また目の前の数を認識しながら精神を高揚させることもなく、いたって平素の様子で構えているのだ。まさか真っ向から戦いを挑むつもりとも思えず、一体何をしようとしているのかと疑問に思う。仮に他意の無い言葉としたら、ただの現実逃避にしか聞こえないようなものだ。
「ソフィアさん、まさか彼にドラゴンキッスを与えたのでは?」
「あれって、飲むと状況判断が出来なくなるの? 幻覚剤じゃないんでしょ?」
「そ、そうですが、体質によっては極稀に軽い幻覚症状に陥ると言いますか、その」
「いいから黙って見てなさい。なんなら、今の内に薬やっといた方が後々気持ちが楽になるかもよ?」
「え? それって一体どういう意味で……」
 直後、ライオネルの背後からスタッフの一人がグリエルモを指さし声を上げた。
「な、なんだ、あれ!?」
 その尋常ではない様子にライオネルも正面へ視線を戻す。そこにグリエルモは肩をいからせながら立っていた。だがその肩は、いきなり上半身ごとめきめきと音を立てて急激に膨らみ始めた。服の中へ風船を仕込んだというよりも、鉄骨を何本も組み込んだかのような角張った輪郭に見える。人間の体から鉄骨が飛び出て来る事など当然あるはずもなく、何かしら目眩ましのトリックを用いてこの有り得ない出来事を起こしているに違いない。この場の誰もがそう踏んでグリエルモを見つめていた。
 やがて大人の身長に近い肩幅まで膨れ上がったグリエルモの上半身は、尚も膨張を続けて服を突き破り、それに応じて下半身も太く逞しいものへ膨れあがる。そしてグリエルモが纏っていた衣服のほとんどが千切れ飛んだ時、そこには既に人間としての面影は無く、いつの間にか変貌を遂げた異形の体を衆目へ晒した。
「え……?」
「お、おい……なんだよあれ?」
「新手の演出、じゃないよな?」
 突然常識から大きく外れたものを目の前へと付き付けられ、誰もが自分の目を疑いざわざわと騒ぎ始めた。誰一人グリエルモの姿に我を忘れ理性を失わないのは、グリエルモの姿がまるで作り物のように思えるほど現実離れしているからだった。
 爬虫類にも似た白銀に輝く美しい鱗、首はやや長く顔は面長、大きく裂けた口の間からは鋭い牙を覗かせ、両手足の指先には大きな爪が伸びている。実際、誰もがこの存在が何であるかすぐに気が付いていた。ただ、それは実在するものではなくただの御伽噺の存在だという固定観念にずっと縛られたため口に出来ず、結局は血の気を引かせるのと同時に平素の理性を取り戻してしまい、挙句の果てには騒ぎ立てて逃げ出す機会を逃してしまった。そのため、一人としてグリエルモの異形の姿を前に逃げ出す者はいなかった。
「こ、これは、幻覚だ……!」
 不意にライオネルは上着の中へ手を伸ばすと、白い錠剤をぎこちない仕草で口の中へ放り込んだ。夢だ幻覚だと真っ青な顔でぶつぶつと呟き己に言い聞かせるライオネル。おそらくこの中で一番最初に心の折れた人間だろう。幻覚を見る順序も飛ばし、ひたすら受け入れ難い出来事から自分を遠ざけようと一心不乱に祈り続ける。
 そんなライオネルを見てソフィアは、呆れの表情のまま溜息混じりに言い放った。
「だから言ったじゃない」