BACK

『ニク、ニク』
 ずしんと地均しするかのように右足で床を踏み締めるグリエルモ。足場が大きく揺れ一同は、驚きつつも控えめな声でどよめいた。
 長身痩躯、色白で髪の色は印象的な銀髪、如何にもどこかの御曹司といった温室育ちの風貌と常識から外れた言動ばかりが目立つグリエルモ。そのグリエルモが今、皆の目の前でいきなり本来の姿である竜の姿を一同の前に晒した。そもそも竜とは、人間界において限りなく空想に近い生き物である。如何にも実在しているかのような伝承や伝記は幾つも残されているが、実際にこの目で見たという人間は非常に少なく、その証言にしても一貫性が無い事から信頼に欠け、存在の如何はほとんど幽霊と同じ次元である。幽霊と同じような生き物が突然目の前に現れた時、常人ならばどんな反応をするのだろうか。正に今、その状況が目の前で起こっている。
「……少し飲み過ぎたかな?」
「いや、これは新しい演出だ! そうでしょう、社長!?」
 いきなり現実離れしたものを目の前に突き出されたせいか、あれほど高揚していた暴徒達が俄かに落ち着きを取り戻していく。しかし、それとは裏腹に口から次々と飛び出すのはどれも現実逃避の言葉ばかりで、誰一人として現実を真っ向から見据えようとしない。それでも否応無くにじりよるグリエルモの巨体が彼らの足元を揺らすと、表情は見る間に強張っていき、ソフィアの境遇がどうとかライオネルの裏稼業がどうとか、そんな事で一喜一憂している場合ではない事をようやく悟り始める。とにかく目の前の化物の正体が何なのかは分からないが、少なくとも向こうにその気があれば、あっという間に自分の命が奪われる事だけは確かだ。となれば、次に取るべき行動は決まっている。
「に、逃げろ! 食われるぞ!」
 誰が叫んだのかは分からないが、その一声により呪縛にかかったかのように膠着していた一同はハッと身震いし、我先にと出口へ目掛け駆け込んで行った。
『マテマテ、ワレノウタヲキケ』
 そんな彼らの後をずしりずしりと床を揺らしながら追いかけるグリエルモ。ただ歩いているだけでも人間を遥かに上回る体躯を持つグリエルモは圧倒的な威圧感があり、追われる側にしてみれば狭い部屋に押し込められたまま壁がこちらへ迫り来ているような恐怖を感じた。そして何より恐ろしいのは、無造作に掲げられた両手からそれぞれ生える長い爪と、大きく縦に開かれた口から覗く鋭い牙である。ひとたびかかれば骨ごと吹き飛ばされる自分の姿しか想像が出来ず、そんなものを振りかざしてくるグリエルモからは逃げの発想しか生まれない。
 ここまで押し寄せてきた時と同じ勢いで部屋の外へ我先にと逃げ出す人の群。それは既に暴徒ではなく、まるでクモの子のように各々思い当たった方へ散り散りに逃げていく。そんな彼らをグリエルモは、体ごと壁を突き破り天井や床をがりがりと削りながら戯れるかのように追いかける。
『ソレソレ、ツカマッタラマルカジリ』
 竜族にとって人間は下等な生物、家畜にも等しい存在である。グリエルモがしているのは、人間が愛玩動物をからかって追いかけるのと同じ事である。そもそも愛玩される立場ではない人間がそういう扱いを受ける事に慣れているはずもなく、ただただ途方も無い恐怖を受けるだけである。そして必死に逃げる人間達を、グリエルモは壁やら柱やらを圧し折りながら追いかけ戯れ続ける。
 部屋に残されたソフィアとライオネル、そしてその部下達。ソフィアはグリエルモの悪ふざけぶりに小さな溜息をつき佇んでいるが、ライオネル達は追い掛け回されている彼らと同様に、背骨を引き抜かれるような衝撃を受けていた。
「しゃ、しゃ、社長、早く逃げましょう!」
「ははは、何を言うのかね。出口はこっちだよ。あれ、開かないな」
「しっかりして下さいよ! もう幻覚始まったんですか!? 鍵がないから開きませんよ!」
「よし、こうなったら無理やり抉じ開けよう!」
 呆然と座り込むライオネルと、頑丈な鉄の扉に無謀にも素手で格闘を挑む部下達。どちらも現実を見ていないという点では一緒だが、部下の方が幾分かタフだとソフィアは口元を綻ばす。
 フロア中には逃げ回る人々の悲鳴と、壁や床が打ち抜かれる破砕音、そしてグリエルモの地響きのような足音が響きわたっている。人払いをするには戦慄させるのが一番効率的だが、グリエルモは少々悪乗りが過ぎる。後々冷静になって思い返されると竜に対する偏見が生まれるだろうが、そもそも竜の存在自体が曖昧なのだから、あまり影響はないのかもしれない。
「うおーい! 無事か、お嬢!」
 その時、部屋に人影が四つほど駆け込んできた。それは以前の派手な白スーツではなく地味な一般人を装ったカーティス達だった。観客に斥候として紛れ込んでいたはずだが、この混乱で行方も分からなくなったのを境に、ソフィアはすっかりその存在を忘れていた。意外な顔の登場にいさかか驚きを見せるソフィアは、出来ればこのまま思い出したくなかったものだと肩を落とす。
「なんだ、無事だったんだ。どこから来たの?」
「潜入した時に少しずつ建物の間取りを調べてたんだよ。別な迂回路がたまたまあったんで、そっから駆けつけて来たって寸法だ。まあお互い無事で何よりだ」
「そうね。ほら、あそこであんたの憎き神竜会の親玉が変な幻覚見てるわよ。今の内に追い込みでもかけといたら?」
「今更手を下さなくたって、この騒ぎじゃな。幾ら買収された官憲でも、ここまで大事になりゃ放っておけねえだろうさ。それよりも、そこのありゃ一体なんだ? 俺はドラゴンキッスなんか飲んでねえが、幻覚でも見えてるのか?」
「ああ、あれはグリよ。幻覚じゃないから安心して」
「あの優男の兄ちゃんだ? 下手な冗談はよせよ」
「本当だってば。一度やり合っておいて、未だに普通の人間だと思ってたの?」
 カーティスはふと、以前グリエルモとやり合った時の事を思い出す。豪腕で幾たびも修羅場を潜り抜けてきたカーティスの自慢のパンチ、それをグリエルモはあんな華奢な体で平然と受け止めるばかりか、自分以上の腕力で子供扱いのようにいなされてしまったのだ。確かに只者ではないとは感じたが、まさかこういう意味だったとは。
 天井や柱が時折音を立てて軋み始めた。そろそろ頃合いである。これ以上グリエルモを遊ばせておくと、脱出よりも先に建物が崩れてしまいかねない。
「おーい、グリ。そろそろ逃げるから、遊んでないで戻っておいで」
 縦横無尽にフロア内を駆け巡り破壊の限りを尽くすグリエルモに、ソフィアはまるで子供を呼び戻すような調子で呼びかける。するとグリエルモは、あっさりそれに答えその巨体を揺らしながら戻って来た。人間より遥かに強いはずの怪物が年端もいかないソフィアの命令に従うその光景に、カーティスは思わず息を飲む。
『マダアソビタイヨウ』
「駄目よ。適当に散らばったから、後は混乱に乗じて逃げなきゃいけないんだから」
『ウン、ワカッタ』
 グリエルモは方膝をついて右腕をソフィアへ差し出す。ソフィアはそこへ腰掛けると、抱え上げられたグリエルモの首筋に腕を絡めしっかりと体重を固定する。命令もせずソフィアの意向を汲んでいるのかもしれないが、傍目には従順というよりも完全な主従関係にあるように見えてならなかった。『ワガタイヨウ、ワガミギテ、ワガミギテ』
 グリエルモが大きな頭をソフィアに擦りつけようとしてくるが、鱗の硬さで痛みしか感じないため、ソフィアは冷たく平手でそれを押し戻す。そんな二人の仕草をただただ呆然とカーティス達は見上げていた。グリエルモを自分の手足のように使いこなすソフィアが、俄かにグリエルモ以上の底知れぬ恐ろしい存在に思えて来る。竜でさえ未だ受け入れ難い怪物だというのに、それ以上のものとなればもはや想像すらつかない。
「あんたら一体……」
「あら、まだ関わりたい? こっちは初めから御免だって言っていたけど」
「いや、まさか本当に竜なんているのか……? 幻覚じゃねえよな……」
「幻覚って事にしておいた方が賢明よ。それじゃあ、ごきげんよう」
 ソフィアがグリエルモの頭を小突き、天井を指差す。その意図を汲み取ったのか、グリエルモはこくりと頷いた。
『ワガタイヨウ、ワガイシトトモニテンヲツラヌク』
 グリエルモは天を仰ぐと口を大きく開いた。次の瞬間、唐突に周囲を閃光が包み、皆が一斉に目を庇う。同時に鼓膜を内側へ押し込むような圧迫感を感じた。爆発のような轟音ではなく、何か急激な気圧の変化が起こっている。だがそれが何かを理解する事は出来なかった。
「……な、なんだこりゃ。一体何が……」
 視界が晴れると、今度は頭上の光景に一同は驚愕した。地下深くにいたはずの自分達の頭上から天井がすっかり消え失せ、地上の様子までが窺える吹き抜けになってしまっていたのである。周囲には破片も散らばってはおらず、まるで上から刳り貫いたかのように抜けてしまったのである。
 この出来事が理解出来ず唖然とする中、一人ソフィアだけは語気を荒げていた。
「ちょっと、誰がそんな派手にやれって言ったのよ!? 人死にが出たら面倒じゃない!」
『ゴ、ゴメンヨ、ドウカブタナイデ』