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 それは街中を蒼然とさせる、まさに前代未聞とも呼べる事件だった。街のとある一角にそびえる建造物が、突然光ったと思うや否や一瞬で半壊してしまったのである。残った部分もほどなく崩れ、完全に建物は倒壊した。僅かな時間で景観が変わってしまったのである。
 かつてない異常事態にすぐさま動いた治安機構は大規模な捜査網敷き、すぐさま建物は神竜会の管理物件と判明、普段は倉庫代わりにしか使っていなかったはずの建物の地下には、当時は多数の民間人がいた事まで明らかとなる。
 倒壊した後の瓦礫からは、大量の薬物が見つかった。法的には違法なものに区分されてはいないが、幻覚等の症状を伴う高揚感が得られる事と見過ごすには多過ぎたため、この件についても慎重な捜査が進められる事になった。事件性は確定していないものの、神竜会が根幹に関わっている事から、世間の目は嫌でもそこへ向けられる。
 建物内では会員制の何かが催されていたようである。過去に一度、深夜に列を作って注意を受けたこともあるそうだ。地階の不自然なまでの広いスペースは、それだけの大人数を収容するためである。
 建物が丸々一つが消え、百名近くが事情聴取のため任意同行を求められたこの事件。不幸中の幸いと呼べるのは、奇跡的に死傷者が一人もいなかった事だ。そのためか、痛ましさよりも事件そのものの特異性ばかりが浮き彫りとなる。
 その日も事件現場には、朝から十数名にも及ぶ調査員や憲兵が事件の手がかりを求めて捜索を続けていた。そんな中、彼らには属さない数名の別な一団が独自に調査を行っている姿があった。
 それは、この大陸を統治する聖シグルス王国の諜報団だった。元々は全く別件の業務での遠征中で滞在していたのは帰還途中の偶然だったが、この前代未聞の事件に国防上の危険性は無いか調査を実施しているのである。
 彼ら諜報団には憲兵の指揮権は無いが、憲兵に行動を制限されない権利もある。そのため事件現場の検証は、それぞれ独自に行っている。むしろ暗黙の内に、お互いの行動に不干渉としている雰囲気がある。
「現場検証の方、粗方終わりました」
「何か見つかったか?」
「いえ、特に目新しいものは何も。魔法を使った形跡もありませんし、もしかすると珍しい気象現象か何かかもしれません」
「そうか。じゃあ、そろそろ引き上げるとしよう」
 諜報員は未だ調査を続ける憲兵達を後目に、そそくさと撤収を始めた。情報交換の申し出も無く、組織の目的が違うから交わる必要もないと言わんばかりの徹底した態度である。
 男はタバコへ火をつけ、撤収が終わるまでの時間をぼんやりと空を眺め待った。彼はこの諜報団を取り仕切る責任者で、名をトアラと言った。だがそれは諜報員という立場上の名で、本名は別にある。諜報員という肩書きも公のものではなく、社会的には全く別の身分を与えられている。
 一本目のタバコを吸い終えたトアラは、これまでの調査結果をまとめたレポートへ目を落としながら二本目のタバコをくわえ瓦礫の上に腰を下ろした。
 建物の所有者である神竜会、その支社長に当たるライオネルという男の証言。
 当日、彼は地階で会員制のイベントを催していたが、突如その現場に巨大な竜が乱入し暴れ回った挙げ句、建物を半壊させたとある。
 ライオネルの体内からは薬物が検出され、それは建物内から見つかったものと一致、イベントの参加者からも同様の薬物が検出されている。薬物に違法性は無いものの、極めて高い幻覚作用と高揚感が得られるため、合法と呼ぶよりは脱法に近い代物である。この薬物の売買により、短期間で相当の利益を得ていたと思われる。
 イベントの内容については様々な証言があるが、共通しているのは、無名の少女をステージ上で歌い踊らせ、それを愛でる目的で集まっているということ。これについては特に違法性は無い。
 一番の問題は、建物内にいたほぼ全員がライオネル同様に巨大な竜を見たと証言している事だ。
 薬物による集団幻覚と見るのが常識的な判断だが、現に建物は非常に不可解な壊れ方をしている。建物自体は年季の入ったものではあるが設計に問題がある訳でもなく、また内部には大きく改修した後が見受けられる。倒壊前に激しい発光を見たという証言もある事から、自然倒壊という線は薄い。自然現象にしても、ここまで局地的に大規模な災害をもたらすものなど聞いたことがない。更に引っかかっているのは、周囲に散らばっている建物の破片が圧倒的に少ない事だ。
 地下室から地上にかけて、鋭利に抉られた断面も幾つか見つかっている。内装工事の課程で出来たものとも思えるが、不自然さは否めない。生物の爪痕に見えなくもないが、これほど大きく鋭利な爪痕を残す生物は、未だ発見されていない。
 レポートの作者は最終的にこの事件を、単なる集団ヒステリーとして総括していた。トアラ自身もそれが妥当な判断であると考えている。不可解な点は幾つもあるが、この程度の事件は大陸だけでも毎月のように起こっている。さほど驚く事もないのだ。
 やがて撤収も終わりに近づき、トアラはレポートを丸めて上着の中へ押し込むと、半分ほど吸いかけたタバコを捨てて立ち上がった。
「ん?」
 その時だった。不意にトアラの足下を柔らかい感触が襲う。何かを踏みつけたかと視線を落とし、その薄汚れたものを取り上げる。
「これは……」
 それは埃と泥で汚れた紙袋だった。中には様々な種類のパンが汚れた状態で詰まっている。よくよく見ると、同じような袋が他に四つも見つかった。袋の大きさは大人が小脇に抱えるほどで、四つも抱えるのは不可能ではないにしてもかなり無理がある。しかも、それだけの大荷物を抱えて歩く姿は相当目立つ。何時購入されたものかは分からないが、さほどくたびれてはいない袋の角から察するに、あまり時間は経過していないようである。
 そういえば先日、片田舎の村で銀色の竜がちょっとした騒動を起こしたと別の諜報団に聞いたような。
 何故、そんな事を今に思い出すのか、トアラは自分でも分からなかった。ただどういう訳か自分の勘が、今回の事件とその銀竜を繋げなければならないと警鐘を鳴らすのである。
 諜報員は何よりも現実主義でなければならない。推測を立てることはあっても、理由の無い勘に従う事などあってはならない。だが、まるで国の存亡がかかっているかのような急務と重責に背を押され、トアラはどうしても自分の勘を捨て置く事が出来なかった。
「このパンを売っている店、探してみるか……」
 そしてトアラは三本目のタバコを口に咥え火を点けた。