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「ねえ、ソフィー。どうしてそんなに不機嫌なんだい?」
 まだ太陽も昇り切らない早朝、街外れの小さな山道を行く二人は、大荷物を抱え、さながら夜逃げか駆け落ちのような姿だった。
 ソフィアはぶつぶつと何か呪い節のように呟き続け、明らかに不機嫌な様子である。だがグリエルモは相変わらずそんな空気が読めず、のんきな表情で大荷物を持ちながら続く。
「少し静かにして。今気分が悪いの」
「おお、それは一大事! 小生が元気の出る歌を一曲奏でよう!」
 ソフィアは苛立ち混じりの溜息を一つつくと、おもむろに立ち止まってその場へ屈み込む。どうしたのだろう、とそこへグリエルモが近づき覗き込もうとすると、いきなりソフィアは立ち上がり手にした道端の石でグリエルモの頭を左右に殴りつけた。そして石は放り捨て前方へ向き直り、何事も無かったかのように歩き始める。
 石で殴りつけられたグリエルモは痛がる素振りは見せなかったものの、ソフィアに殴られた事が精神的に応えたのか、急激に意気消沈し肩をがっくり落としながら、今にも泣き出しそうな表情でとぼとぼと後に続いた。
 ソフィアは酷く苛立っていた。それは複合的な理由だが、一番の理由は堪能するはずだった豪遊生活が何一つ果たせなかった事にある。辛うじて換金した現金は無くさずに済んだのが唯一の救いだろうか。ただ、今回は特に派手に動き過ぎたため、しばらくは慎重に行動しなければならない。
 ソフィアは他人の都合で自分の予定が狂うこと嫌う。理不尽に感じれば感じるほど、特に強く苛立ち怒りすら覚える。今回の一連の騒動はまさにその典型例だった。彼らからは距離を取ろうとしていたにも拘わらず、どうでもいい対立に巻き込まれてしまい、結局豪遊生活は満喫できなかった。もはや怒りも通り越して涙すら出てくるような心境である。もしもこの境遇のまま更に現金まで失っていたらおそらく、あの時の激情のままグリエルモを駆って神竜会の仕事場を襲撃していただろう。
 ともかく、こうして逃げるようにではあるが、今度こそ面倒事を起こす連中とはすっぱり縁は切れた。早急に次の大陸へと渡り、今度こそゆっくりと休暇を取る事にしよう。
 目を閉じれば、息を吸えば、吐けば、自分を翻弄した連中の笑い声を思い出し怒りが込み上げてきたが、ソフィアは何とか自分をなだめ、いつまでも拘らず次へ目を向けろと励まし、次の街へと歩を進める。
 しばらく歩き続け周囲が明るくなり始めた頃、道は人々の行き交う街道へと抜けた。その脇に小さな道の駅もあり、何か食事も売っている様子である。朝食も食べずに逃げ出したソフィアは空腹を思い出し、あれからずっと歩き詰めだった事から休憩がてらに立ち寄る事にした。まだ朝とは言っても道の駅は人が多く、ソフィアにとってそれはむしろ好都合だった。人がいればそれだけ一人一人が目立たなくなるからである。
 どこか空いている店は無いかと奥へと進むソフィア。相変わらず落ち込んだ表情でうつむきながらも律儀に後をついてくるグリエルモ。そしてそれは唐突に起こった。
「ああ、ようやく見つけた!」
 突然角から飛び出して来たのはなんとマルセルだった。何も告げず街から出てきたため自分達がここにいる事など知るはずもない。本来ならそう驚くところだったが、ソフィアは違った。マルセルも期待する驚きの表情を浮かべるかと思いきや、ソフィアはむしろ奥歯を噛み締め眉を潜めるという
、可憐な容貌には見合わず強面のような表情で感情も露に睨みつけた。予想外の迫力にマルセルは驚きたじろぐが、ソフィアは直接手を出さずそのまま横を通り過ぎて行ったため、すぐさまその後を追った。
「どうやってここまで来たのよ」
「実は僕、あの街では探偵業を営んでたんですよ。結構腕には自信があるんです。勘も鋭いし。まあもっとも、まるで儲かって無かったですけどね」
「ああそう。で、何でついてくるのよ。お金なら払ったでしょうに」
「それとは別にですね、何と言いますか、個人的な興味を惹かれた訳で」
「ハッ、あれを見て興味を持とうなんて、相当馬鹿か悪趣味かのどっちかね」
「実は僕、将来は役者になる事を目指しているんですよ。それも社会風刺から喜劇までこなせる、そんな幅の広い役者に。それでもっと世の中を見て回って社会勉強しようと思っていたんですが、お二人についていけばかなり濃厚な経験が味わえそうなので」
「喜劇役者なら今のままで十分だから。おとなしく真面目に働いて、ちゃんとした演技学校で勉強しなさい」
 人込みを掻き分けながら、一人は怒鳴り声で、一人は平素の声で、一人はがっくり肩を落としながら進むこの三人を、人々はそれぞれ奇異か無関心の目を向けた。確かに異様な光景ではあったが雑踏が日常の道の駅ではさほど珍しい事でもなく、ほとんどの興味はほんの一瞬しか続かなかった。
「でも、絶対に面白い事が起こってると思うんですよ、今までもそうでしょうし。それは人類にとって共通の財産だと思いません? だから僕はこの事を書き起こして世に送り出したいと思ってるんです。あ、実は僕、小説家のような事もしてまして」
「その挙句、馬鹿な金貸しからお金借りて返せなくなって自殺しようとしました、と。それだけで十分面白いから、帰って自伝でも出しなさい」
「その予定は出来てますよ。上中下の三部作の構想です。ただ、肝心の表紙を飾る絵のインスピレーションが出てこないんですよね。あ、実は僕、画家のような事もしてまして」
「つまり、人生思いつきで行動してる訳ね。典型的な馬鹿よ。ふらふらしないで、さっさと街に戻ってちゃんと働きなさい。これ以上つきまとうのはやめて」
「つきまといではありませんよ。僕の人生を、自ら捧げようとしているのです。私の目に狂いが無ければ、あなた方はそれに値する大器の持ち主ですから」
「狂ってるのは目じゃなくておつむの方ね。やっぱあんたの自殺、止めるんじゃなかったわ」
「やっぱり、僕の自殺を止めて戴いたのですね! 何と慈悲深いお方だ!」
「どういう思考してるのよ。今回だってあんたのせいで散々な目に遭ったし、人として大事なものを幾つも無くした気がするし。だから顔も見たくないの。分かる?」
「分かります! 実は僕、カウンセラーの資格を持ってるんですよ! 悩み事でしたらどうぞ御遠慮無く」
 そこまでろくに呼吸もせず走り抜けるように喋り散らしたソフィアは、唐突に足を止め振り返る。そんなソフィアの行動に驚くマルセルだったが、ソフィアの表情はいつの間にか微笑すら浮かべる安らかなものに変わっていたため、それを好意的に受け取り小さく息をついて安堵する。だがソフィアの表情は穏やかだが視線は酷く冷たい事にマルセルは気付いていなかった。
「グリ、そいつのこと、足腰立たなくしてやって」
 突然告げられ、マルセルは驚き焦り背筋を硬直させる。ソフィアがそういう冷徹な事を平然とやっておかしくない人間だと知っていたからだ。しかしすぐにその緊張も緩んでしまった。それは、振り返った先のグリエルモが明らかにトーンが低く乗り気ではない様子だったからである。
「……ふんだ。どうせ小生は都合の良い竜なのだ」
「どうしたの? なんで拗ねてるの?」
「……知らないのだ」
 グリエルモはソフィアに従順だと思っていたが、実はそうでもないらしい。これはいよいよソフィアを重点的に拝み倒せば少なくとも既成事実は作れるのではないだろうか。そう踏んだマルセルはそっとソフィアへ近づこうとする。だが、
「よし、じゃあちゃんと出来たら、御褒美にキスしてあげる」
「本当かい!? この猿を懲らしめれば良いのだね!?」
「物分りが良くて助かるわ」
 いきなり豹変したグリエルモは、普段以上に意気揚々と胸を張り目を輝かせる。だが、次に行動を起こしたのはマルセルだった。マルセルはいつの間にか踵を返すと、声をかける暇も無くその場から瞬く間に走り去ってしまった。そんな突然の行動に唖然としたのはソフィアだけでなく、物事の感慨に鈍いグリエルモすら動く事が出来なかった。
 グリエルモは追跡するかどうかをソフィアに問いかけるが、ソフィアは苦笑いを浮かべ首を横に振った。これ以上関わり合いたくないだけでなく、そもそも追う気力すら湧かなかったからである。ソフィアは約束通りグリエルモの頬にそっと口付けて近くの店へ入っていった。
「あいつ、実は通信兵志願でもしてた?」
「ソフィー、猿というものは元来素早い生き物さ」