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 男は息を切らせ必死の形相で夜の路地裏を駆けていた。声を上げ彼を追う憲兵の足音はすぐ近くまで来ている。辛うじて見つかってはいないものの、この付近に潜んでいることも男がそれほど長い距離を走り続ける事が出来ない事も既に見透かされている。
 後は時間の問題。
 疲れ切った足を引き摺るように逃げる男の脳裏には、いつしかそんな言葉がよぎっていた。元々素人のやり口、忍び込んだ家の数を考えればとうに潮時だったのだ。今夜など予め憲兵が潜んでいて、自分がのこのこやって来るのを待ち伏せていた。もしかすると素性だけでなく自宅も割れているのかもしれない。それならば、こうして逃げ続けることに一体何の意味があるのだろうか。
 自問を繰り返す男は、それでも慎重に周囲の気配を伺いながら足音をなるべく潜める事を心がけ逃げ続けた。
 男は罪を重ねていた。それも数え切れないほどである。罪状は窃盗。人を手に掛ける事はせず、その額も彼が一月食べるにも満たないが、それはこの街の判例では三度も終身刑が科せられるに十分だった。
 盗みの目的は勿論、金である。それも途方もない額だ。酒もタバコも賭け事も断って以来、かれこれ一年以上経っているが、それでも金はまるで足りない。
 真っ当な仕事で金を稼げるのなら、それに越したことはなかった。その日さえ暮らしていければ構わないほど無欲な男は幾分かの蓄えもあり、地道に働いていればいつかは十分な金が手元に出来る。しかし男には、悠長な計画を実行するだけの時間は無かった。
 少しでもまとまった金を工面しようと奔走するも一向に前進せず、ただ時間ばかりがいたずらに経過していく日々。焦りばかりを募らせ足踏みをし続ける自分をどうにかしようと思い悩み、遂にこの男は凶行へ走ってしまった。
 一度踏み出せば、後は驚くほど良心が痛まなかった。自分は日銭で口を満たしているというのに、金など吐いて捨てるほど持て余している人間がいる現実が、男の良心を酷く歪ませてしまったのである。
 これぐらいなら大丈夫だろう。餓えて死ぬこともないはずだ。
 そうして犯行を繰り返す内に、遂に彼には憲兵の手が伸びる事となった。残る時間も少なくなった事も関係するが、男は少々目立ち過ぎてしまった。気が付けば既に、逃げ場もないほど取り囲まれていたのである。
「こっちも駄目か……」
 路地の物陰から様子を窺う男は、無数の憲兵の姿に失意の溜息を付いた。この付近にこれだけ憲兵が配備されているという事は、少なくとも自宅は割れていないようである。
 郊外の自宅へ向かうには、どうしても目の前の通りを横切らなくてはいけない。憲兵は見ただけでも三人、そのいずれにも見つからないよう行かなければならないが、それはとても現実的ではない。足の速さなら自信はあるものの、追われたまま帰る訳にもいかない。
 どうしても、ここで捕まる訳にはいかない。
 しばし悩んだ男は、やがて決心を固めそっとポケットへ手を入れた。そこにはいつも忍ばせている小さなナイフがあり、その堅く重い柄を握り締めた。途端に手のひらには汗がにじみ出て、緊張のあまりすぐ指先が痺れてきた。それが自分に残された最後の良心かと思ったが、今の自分にそれは重荷でしかないと気持ちを改める。
 人を手に掛ける事はしたくなかったが、それよりも大事なのは無事逃げ伸びる事だ。酷く身勝手な理屈だが、今はその理念に身を委ねるしか選択肢がない。尚も震える手をぎゅっと握り締め、男は最後の決意が整うのをじっと待った。
「そこのお前」
 その時だった。突然聞こえて来た憲兵の呼び止める声に、男はハッと息を飲み顔を上げる。しかしそこに憲兵の姿は無く、彼らはまだ通り沿いで執拗に捜索を続けている。だがそこには憲兵ではない一人の青年の姿があった。どうやら呼ばれたのは自分ではなく、その青年だったようである。
「小生を呼んだのかね」
「ああ、そうだ。そこに止まれ」
 憲兵に呼び止められたのは長身痩躯で旅芸人といった風体の若い青年だった。背中には楽器が入っているらしきケースを背負っている以外、荷物は少なく見受けられる。特に印象的なのは、この薄がりからもはっきり分かるほどの見事な銀髪である。街には他にも行き交う人間はいるが、青年はその風体から呼び止められたように思える。
「まずは名を名乗れ」
「小生の名はグリエルモ。音楽家である」
「余計な事は答えなくていい」
 憲兵は神経質に足元を蹴った。
 男はその様子を不安げに見ていた。憲兵とは特権を持った役職で、高圧的な態度を取る者は少なくない。当然街の者ならば誰もが知っているため憲兵と相対する時は慎重に言葉を選ぶのだが、青年はまるで注意する様子もなくむしろ不遜にさえ見える。彼らが憲兵であるどころか、憲兵というものが何かすらも知らないのだろう。
 あの青年、くれぐれも言葉には気をつけて欲しい。さもなくば、一体どんな目に遭わされるのやら。
 見ず知らずの青年に対して男はそう憂いを込めたが、しかし青年は態度を変えることはしなかった。
「まあいい。それよりもこの辺りで怪しい奴を見なかったか? 中年の男だ」
「それならば小生の目の前にいるが。ほら、あそこやそこにもだ。揃いの服を着るなどと、まさか君達はつがいかね?」