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「き、貴様、今何と言った!?」
「だから、お前はそこら辺で同じ服を着ているのとつがいなのかと訊いているのだ」
「おのれ、我らを侮辱するつもりか! 自分が何を言っているのか分かっているのか!?」
「猿の言葉など分からんよ。大体合ってればそれで良い」
 青年の反抗的を通り越し小馬鹿にしているとしか思えない言い種に、よほど驚いたのだろう。憲兵は怒りよりも驚きと動揺を露わにして、酷く言葉をどもらせた。この様子に周囲の憲兵も険しい表情で集まってくる。だが青年は状況をまるで理解していないのか、小首を傾げるばかりで慌てる素振りも見せない。
 あの青年、田舎者どころかとんでもない大馬鹿者だ。
 物陰から窺っていた男も、青年の言動に驚いていた。たとえ憲兵ではなくとも、あれだけ刺々しい空気を放つ人間を相手にする時は、普通はもっと言葉に対して慎重になるものだ。それを、よりによってあんな挑発的な言葉を選ぶとは、普通の神経ではまず考えもつかない。
「何を血迷っているのかは知らないが、相手を良く見て喧嘩を売るべきだったな。このまま不敬罪で牢にぶち込んでやろうか」
「猿の法律など知らんよ。小生は非暴力主義者だから、それで大体問題はなかろうに」
 挑発的な言動を繰り返す青年を周囲全ての憲兵達が集まり取り囲む。それでも青年は状況が分かっていないのか、まるで緊張感が無くのんびりと佇んでいる。憲兵は、この見るからにひ弱そうな青年に繰り出された侮辱的な言葉に火をつけられ、あからさまな殺気を放ち始めた。自分よりも格下のものに馬鹿にされる事を屈辱と感じるのはそう珍しい事ではない。
 この状況はチャンスである。
 男はただならぬ雰囲気を前に、歓喜と共にそう思い立った。今、憲兵の注意は一斉にあの青年へ集まっている。おそらく周囲への注意さほど向いていないだろう。騒ぎを聞きつけた野次馬も集まってきている。今ならば人混みに紛れて逃げられそうだ。
「この田舎者が……。よし、お前を牢へ入れるのは止めだ。今ここで、一体誰に刃向かったのかをたっぷり反省させてやる」
 俄かに声を押さえ殺気立った憲兵達は、おもむろに腰の剣を抜き放った。抜き身の刃に周囲からはどよめきが起こり、憲兵達を恐れ自然と足が数歩下がる。
 この国の憲兵は、著しく治安を乱す存在について己の裁量で処断する事も許されている。剣を抜いたのは必ずしも殺すためではないが、許された権限からすると腕の一本を斬り落としてもおかしくはない剣幕である。
 さすがにこれでは青年も逃げるに違いない。
 そう男は思ったが、しかし青年は剣を前にしても動じるどころか向けられたものすら理解していないのか、未だに小首を傾げたままだった。どれだけ田舎から来たのかは知らないが、幾ら何でも剣がどういうものかくらいは普通は誰でも知っているはず。まさか、本当に本物の馬鹿者なのだろうか?
 刃傷沙汰となっては周囲も騒がずにはいられない。
 今だ、この騒ぎに乗じて逃げよう。今ならうまく人込みに紛れて逃げられるし、全ての憲兵が正確にこちらの顔を見分けられるはずもない。
「何かね、その鉄は」
「お前のような馬鹿の血をたっぷり吸ってきた鉄さ」
「愉快な事を言う猿だ。鉄が血を吸う訳ないだろうに」
 男は騒ぐ群衆の中へ静かに紛れ込むと、体を屈め出来るだけ目立たないよう反対側の路地へと向かう。
「そこまで言うなら、腕の一本は無くす覚悟があるのだろうな……!」
 一層の殺気を放ち剣を構える憲兵。周囲もとばっちりを受けてはかなわないとばかりに、一人また一人と徐々に逃げ出し始める。紛れて逃げ出すには丁度良い状況だった。男は皆に紛れてその場を離れようとする。
 だが、不意に男の脳裏にある言葉が横切り足を止めさせた。
 果たして、このまま青年を見捨てて良いものかと。
 改めて青年の状況を見ると、もはや憲兵はいつ剣を振り下ろしてもおかしくない緊迫した空気を放っていた。このままでは間違いなく、青年は憲兵に半殺しの目に遭わされるだろう。
 自分には何の関わりもない事である。憲兵を怒らせたのは青年の勝手で、自分はその騒ぎに便乗するだけなのだ。何一つ、負い目はない。
 だが、半殺しにされると分かっていて見捨てるのは、許される事なのだろうか。
 男は止めた踵を返すと、恐れながらも人々と逆の方向へ向かっていった。
 つくづく、自分は損な性格である。そう自嘲せずにはいられなかった。ここで保身に走るのは決して利己的ではなく恥入る必要もないのに、あの無知な青年を見捨てる事が出来なかった。こういう要領の悪さで損をした事など数え切れないほどある。そのせいで仕事でも出世は出来なかった。何一つ得はしないと分かっている。全て承知の上で、男は憲兵の前に自ら飛び出していった。
「ちょ、ちょっと待って下さい! それは私の連れです!」