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「何か用かね」
 決死の覚悟で飛び出したはずのその男、しかし何故か青年は真っ先に、しかも冷ややかな声を浴びせた。
「えっ……あ」
 本当の身内ならしないであろう青年の反応に男は戸惑った。いきなり見ず知らずの自分が出てきて驚くかもしれないが、良く考えもせず反射的に否定するとは、どれだけ状況が読めないのか。この青年は思った以上に頭が悪い。男は次の一手に悩まされ、その場に硬直する。
「貴様、この馬鹿の知り合いか?」
「猿の家族はおらんよ」
「お前には訊いていない。黙っていろ」
「だそうだ。誰かは知らぬが、小生の事に首を突っ込んでくれるな」
「お前に言ったんだ」
 彼が何にしても、まともな思考を持っているとは考えるべきではないのは確かである。その上、下手に喋らせれば次々と不遜な言葉を景気良く並べ立て状況を悪化させてしまう。彼を助けるならこれ以上喋らせるべきではない。そう判断した男は、青年と憲兵の間に自ら割って入った。
「いえ、その、彼は田舎から出てきた者のようですから、ここは是非とも寛大なお気持ちを戴きたく」
「貴様は我々に意見するつもりか? この国の治安を守る我々に」
「け、決してそのような事は」
「ならばどいていろ! 今夜は盗人を取り逃がして気分が悪いんだ」
 その盗人は自分なのだが。
 この憲兵が自分の顔を知らずに追っていた事に一安心するも、取り逃がした事から来る鬱憤が青年の方へ向いているため、今にも斬り殺さんばかりの剣幕である。これを収めるのは容易なことではない。何かしら足止め出来れば、すぐにでも青年を連れて逃げ出すところなのだが。
 男は見ず知らずの青年を助けるべく必死になって考えを巡らす。しかし青年はそんな男の気持ちなど露ほども察せず、再び思いついた言葉を素直に口にする。
「猿とて喜怒哀楽はあるものなのだな。見知りおこう」
 その瞬間、男は蒼白の表情で息を飲み、目前で押さえていた憲兵は遂に我慢の底が尽き、男を傍らへ押し退けるなり剣を振り上げると、そのまま青年へ斬りかかった。
 逃げ遅れでもしたのか、数名ほどが一斉に声を漏らす。誰もが、青年が頭を割られるか肩から胸まで切り裂かれるかし血塗れになって崩れ落ちる様を連想する。だが、聞こえてきたのは人を打つ鈍い音ではなく、まるで金属同士がぶつかり合ったかのような甲高い音だった。
「なっ……!?」
 剣が震える澄んだ音。憲兵は柄から襲われた予期せぬ衝撃に手を痛め、思わず後退しながら手を押さえる。
 剣は確かに青年の肩口を捉えた。しかし青年が血にまみれるどころか、妙な金属音と共に憲兵の方が下がり手を押さえながら額へ皺を寄せている。
 一体何が起こったのか、誰もが驚きも露わな表情で唖然としている。しかし当の青年だけは相変わらずの様相だった。
「こらこら、猿同士で争うのはやめたまえ」
 青年は微塵も痛がる素振りを見せてはいなかった。それは痛みを押し堪えていると言うよりも、痛みそのものを感じていない様子だった。その上、剣で斬りつけられた事すらも何とも思っていないのか、平然と立っている自分へ驚く周囲の反応が理解出来ていない。
 斬りつけたはずが思わぬ形で反撃に遭ってしまったその憲兵はやがて痛みが収まると、かつてない強烈な羞恥を覚え身を打ち震えさせた。特権を持ち我が物顔で街を闊歩していた今まで、このような仕打ちを受ける事など想像すらもした事がない。突然の屈辱に激情が膨れ上がる事を押さえることは出来なかった。
「貴様、服の中に何か仕込んでいるな!?」
「強いてあげるなら、情熱と野心を」
「ふざけやがって……!」
 再び剣を構え襲いかかる憲兵。今度は剣で剥き出しの喉を突いてきた。それは明らかに殺す目的に修練された技で、丸腰の素人になど使って良いものではない。
 何も守るものなどない喉を狙われれば、本当に今度こそはひとたまりもないだろう。だがその剣は、非人間的な金属音と共にまたしても弾かれ、しかも剣は音を立て中程から折れてしまった。
「な、なんなんだお前は!?」
「小生の名はグリエルモ、旅の音楽家である」
「今どうやって剣を防いだ!? さては魔術師か!」
「猿の魔法など知らぬよ。何をそんなに驚いているのかね?」
 人間の弱点である箇所へ突き立てたはずなのに、鉄か鉛かを打ったように剣は弾かれてしまったのだ。当事者である憲兵は怒りと驚きを同時に発し声を荒げる。
 喉を突いたら剣が折れました。そう言ってどこの誰が信じるというのだろう? 目前にする当人すら未だ信じられないという表情をしているというのに。
 一見すれば長身痩躯の手折れそうな姿の青年。強いて上げるなら珍しい銀髪が特徴的で、他に特筆すべき特徴は何も無い。そんな彼が一体どのようにして剣を防いだというのか。自分は知らないが存在は一般に認められる魔法のようなものを使ったに違いないと思うのは憲兵だけではない。
「棒遊びはその辺にしたまえ。小生、早いところ宿を取ってこの旋律を書き起こしたいのだ」
「どこまでもコケにしやがって……おい、今度はみんな一斉に襲いかかるぞ!」
 剣を折られたものの、憲兵は一向に退く様子を見せず立ち向かう構えを見せている。だがそんな彼の後ろから、年長らしい一人の憲兵が肩を押さえた。
「そろそろやめておこう。最近やりすぎだから自重しろと上からも言われてる」
「馬鹿な! 我ら憲兵を侮辱した奴を野放しにでもしておけというのか!?」
「普段なら構わんが、今は別の任務中だ。盗賊は逃がしたが、非協力的な一般人は殺した。それでは上に筋が通らない。こちらの責任問題にもなるぞ」
「……チッ、分かったよ」
 年長だけに逆らえないのか、渋々うなずき拳を収める憲兵。そのまま捨て台詞も無く憲兵達は足早にその場から立ち去った。
 僅かに残った人々から一斉に安堵の溜息が漏れる。一時はどうなるかと悪い連想を幾つも浮かべくたびれた様子で、その悪い想像を裏切り続けた青年を怪訝な表情で一瞥しそそくさとこの場から離れていく。青年が一体何者で今何をしたのかも分からないが、少なくともこの街では決して逆らってはいけない憲兵に逆らうような人間なのは確かで、下手に関わり合いにならない方が賢明だからである。
 そんな中、一度は憲兵との間に入って仲裁を試みようとした男は、憲兵が完全に見えなくなるまでの間こそ呆然と座り込んでいたが、やがてハッと息を飲むと同時に飛び上がると、すぐさま青年の元へ駆け寄った。
「あ、あ、だ、大丈夫ですか?」
 言葉に躓きながら汗だくになって安否を訊ねる。しかし青年は男の滑稽な問いかけに首を傾げると、相も変わらぬ調子で答えた。
「君の方が大丈夫ではないように見えるがね」