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「はい、『あー、あー、あー』」
「違うって。『あー、あー、あー』だってば」
 翌日。
 ソフィアの部屋からは二人の声とマンドリンの音が聞こえていた。グリエルモがマンドリンを引きながら、それに合わせ音程を取る練習をしているようである。ただ、教えるべきはずのグリエルモはマンドリンとの音階が合っておらず、度々ソフィアにそれを指摘されていた。ソフィアの音程の方が遙かに調律が取れている。
「どうですか、グリエルモさん。ソフィアの歌い方は? 母親に似て上手な方だと思うんですが」
 朝食の後片付けを済ませたバジルが、手をタオルで拭きながら部屋を訪れ訊ねる。グリエルモは一度手を止めるとしたり顔で答えた。
「とても筋がよろしい。なかなかの才能を持っている」
「でもグリは全然よね。音程がいつもバラバラだし。本当に音楽家?」
「今は修行中の身である」
「じゃあ、音楽家じゃないじゃん」
 すっかり打ち解けた様子の二人に笑みを浮かべるバジル。昨夜の調子では一体どうなる事かと危ぶんだが、この様子ではさほど問題はなさそうである。
「それでは私は今から仕事に出ていきますので、留守をよろしくお願いします」
「うむ、任せ給え。駄馬のように稼いでくると良い」
 そう答えるグリエルモ。言動がちぐはぐなグリエルモの無神経な言動は眉を潜めるのが普通だが、このグリエルモにはそれを許容する愛嬌のようなものが感じられた。もっとも、それを感じるのはバジルがお人好しと呼ばれる人種であるためかもしれないが。
 バジルが仕事へ出かけていった後も、グリエルモとソフィアはしばらくの間マンドリンを弾きながら音程を取る練習をしていた。ソフィアは喉に軽い炎症があるため連続しては歌えなかったが回を重ねる事に目に見えて上達したものの、グリエルモは一向に上達する気配すら見えない。決定的に才能が欠落した一般人にも劣る程度で、何故音楽家になろうとするのか、ソフィアは疑問にすら思った。
「ソフィー、君のお父さんは何の仕事をしているのかね?」
「今はどこかの清掃員だったかなあ。お父さん、要領が悪いからよく仕事が変わるのよね。私の薬代だって馬鹿にならないから、いつもきつい仕事をしているようだけど」
「誰にでも得手不得手はあるものだ」
「グリは歌うの下手だもんね」
「小生は修行中の身である。それに、作詞作曲は得意である」
「ふーん、たとえばどんなの? 自信作とか出してよ」
「『ああー人間ははかないー。生まれて死んで、また生まれるー』」
「曲はまあまあだけど、声と歌詞は最悪ね」
 才能は無いにしても、とりあえずグリエルモが音楽に熱中している事は確かなようである。この先、努力する事によって報われるにしろないにしろ、この曲を自分以外に平然と聞かせられる度胸の良さは何かしら利点になるのかもしれない。
「グリはどこの生まれなの?」
「ここから遙か西の島である。人はそこを竜の棲む島と呼んでいるが、実際住んでいる我らは大まかに島と呼んでおる」
「つまり、ど田舎って事ね」
「それは違うよ。そもそも我らは全ての生物の頂点であるため、その島こそが世界の中心なのである」
「ふうん、グリって辛い人生歩んできたんだね」
「何を言うかね。小生ほど恵まれた生を受け産まれてきた者は他におらんよ?」
「今のは遠回しの嫌味だよ」
 真偽はともかく、本人が心底そう思い込んでいるのであれば幸せなのだろう。あえてそこを掘り起こしてみるほどの興味は湧かない。
「ソフィーは歌が好きなのかい?」
「そうね。ベッドに寝たきりじゃ、他に出来る事もないし。私のお母さん、小さい頃に死んじゃったんだけど。よく寝る前に歌を聴かせてくれたの。その影響なのかな? お母さんは場末の酒場で歌手をしてて、お父さんはそこの常連だったんだって」
「花に集まる蜜蜂のようなものだね」
「人の親を目の前で悪く言わないでよ」
 グリエルモは未だ精神が幼いのだろうとソフィアは思った。思った事を直ぐ口にするのは子供だけで、大人はそれを理由に許容する。しかしグリエルモは自らの愛嬌で大人を許容させている節がある。少なくとも父親には効果があるぐらいの愛嬌だ。愛嬌は内面から出るものだが、グリエルモの愛嬌は苦労を知らずに育ってきたのか、よほど物事に鈍感なのか、そうでなければ身に付かないものである。とにかく生い立ちが見えてこない不思議な人物だ。
「ねえ、グリはいつまでうちにいられるの?」
「風の赴くままに。小生は何者にも縛られないのさ」
「歌詞の話じゃないってば」
「ソフィーは小生のことが気にかかるかね?」
「ベッドに一人で寝ているのは退屈だもの。ペットぐらい飼いたいわ。暇潰しになるし」
「ほほう、小生がペットか。竜を飼い慣らすのは並大抵ではないよ?」
「竜? 竜って?」
「ここだけの話。小生、実は竜なのだよ」
「ふうん、グリは大変だね」
 突然うちにやって来ては支離滅裂な事を並べ、しばらく滞在する事になったグリエルモ。少なくとも聞いている分には飽きないし、当面の退屈凌ぎにはなる。謎も多いのだが、それはそれで面白いだろう。多少奇特でも、父親以外の話し相手もたまには持った方が良い。