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 バジルが帰宅したのは日が落ちてから大分経ってからの事だった。それでも普段通りの帰宅時間で、ソフィアにはいつもの事である。
「お帰り、お父さん」
「ただいま。すぐに夕食にするよ。それから、これ」
 バジルが差し出したのは一つの紙袋。中に入っているのは数包の粉薬だった。紙袋には見慣れた店名のロゴがプリントされているが、薬包紙の色柄がいつもの見慣れたものとは異なっている。
「これ、いつもと違う薬じゃない?」
「そうだよ。実はね、前のよりも良く効く薬が買えたんだ。今夜からこれを飲みなさい。病気も直に良くなるから」
「でも高かったんじゃないの? 今までのだって大分無理してたじゃない」
「心配ないよ。今働いているところが景気のいい会社でね、思ったよりも沢山給料をくれたんだ」
「ありがとう。でも、あまり無理しないでね」
「分かってるよ」
 それから普段通りの夕食が始まった。グリエルモを含む三人の食卓は既に日常風景となっている。明らかに異質なグリエルモではあるが、それにも拘わらず居る事が当たり前という不思議な状況である。今となっては妙に慣れ慣れしい口調も気にならなくなり、すっかり居着かれた感すらあった。
 夕食後、バジルがお茶を入れようとしたところ、不意にソフィアが大きなあくびをし憂鬱そうにため息を付いた。目にはうっすら涙を浮かべ、気だるげにテーブルへ頬杖をつく。
「……なんか眠くなってきた。疲れてるのかしら」
「あ、そうそう、忘れてたよ。その薬は前のより効き目が強いから、一日一回食後でいいんだよ。それにとても眠くなるそうだから気をつけて」
「もう、そういう大事な事は早く言ってよ。食べる前に飲んじゃったじゃない。ああ、もう駄目。私、寝るね。おやすみ。ああグリは来なくていいから」
 そう言ってソフィアは眠そうに目を擦りながら自室へ戻って行った。テーブルの上には渡したはずの紙袋が残され、それほど眠かったのかとバジルは苦笑しながらそれを大事に戸棚へしまった。
「一つ訊いても良いかね?」
 そんなバジルへ、唐突に問いかけるグリエルモ。まるで機会を計っていたかのような切り出し方である。
「何でしょう?」
「その薬だが、小生の記憶が確かならば、北の港町で同じものが端金で売っていた。名前は知らぬが、匂いがよく似ている」
「名前でなく匂いで覚えているのですか? あなたは本当に不思議な方ですね」
 そう笑いながらバジルはお茶を持って席に着いた。
「君の仕事が何かは知らぬが、そんなものも買うのに困るほど稼ぎが少ないのかね?」
「仰る通り、あの薬は本来はさほど高価なものではありません。ただ、この街だけでは異常に高く、庶民には手の届きにくいものなのですよ」
「高価なのはどうしてかね? 歩いても数日であろうに」
「港町からこの街まで、荷物を輸送するには山賊や野盗が出没する危険地帯を幾つか越えなくてはならないからです。それで輸送費がかかるせいもあるのですが、一番の理由は別にあるんですよ。さ、どうぞ」
 バジルに勧められ、カップへお茶を満たすグリエルモ。それから一つ、何か意味深で切なげな笑みを浮かべると、バジルは自分のカップも満たした。
「この薬を販売するには役所から特別な許可が必要なのですが、その許可は決まった所にしか下りないのです。港町へ買い付けにいくにしても、一般人には非常に危険な道程、だからみんなその業者の店でしか買うしかありません。そして業者はその弱味に漬け込んで、薬の値段をどんどん釣り上げるんです」
「なるほど。風土病なら必ず需要はあるだろうし、みんな大金叩いてでも買うだろうな。だが、そら、例の憲兵とかいう連中は黙っているのかね? あれは民衆の生活を守るとかのためにあるのであろう?」
「業者がそうやって得た利益の一部は、憲兵を含む役人へ還元されるんです。だから何を訴えた所で業者の優遇は変わりませんし、下手を打てば憲兵に罪状をでっち上げられ処分される。黙って大金を払って薬を買うのが一番賢い選択。つまりはそういう事なんです」
 そうため息をつくバジルの伏せた目には、ほんの僅かに疲れの色が浮かんでいた。あまり人間の情緒には興味を持たないグリエルモにも、バジルの心境が僅かに伝わっていた。その疲れはただの労働から来るものだけでなく、もっと精神の根の方にある諦めのようなものであると。諦めの気持ちは疲れだけから来るものではない事をグリエルモは知っていたが、弱者の立場に立った事の無い彼には理解し難いものでもあった。腹が立つなら戦えばいいだけの事だが、それが出来ない弱い者であるからこの境遇に甘んじているのだと、グリエルモはそのぐらいに考えていた。
「まったく、猿供の考える事は分からんな。何故、同族同士で足を引っ張り合うのか」
「ははっ、グリエルモさんは時折人間を客観的に見たような事を言いますね」
「小生は竜族である。人間など家畜と大して変わらぬよ」
「ソフィアから聞きましたよ。竜を題材にした戯曲を書くため、普段から竜になりきっているとか」
「まったく、ソフィーは失敬だ。それで、ソフィーはあれだけの薬で治るのかね?」
「おそらくは足りないと思います。まあ近い内に何とか買いますよ」
「ならば小生が港町まで行って買って来よう。そこならば君の安給料でも何とかなる」
「ですが、道中は危険ですよ? 山賊に何度出くわす事か」
「猿に竜は殺せぬよ。傷一つつけられぬ」
「はあ……」
 普段から成り切っているにしても、こうも徹底していると、社会と付き合うための良識からは外れているようにしか思えない。どこまでが本気でどこまでが演技なのか、その線引きを本当にしているかすら怪しく思う。
 そういえば、グリエルモは憲兵に切りつけられても平然としていた。だから港町からこの街へも無事に辿り着いたのだろうか? 自分が竜だとかいう主張は置いておくにしても、グリエルモが人並み外れた力を持つ青年である事は確かだ。もしかすると彼にとっては、山賊やら野盗やらが出る道中ですらも、ちょっとしたお使いぐらいにしか感じていないのかもしれない。
「グリエルモさんはソフィアの事をどう思っていますか?」
「歌の才能がある娘だ。悔しいが小生と良い勝負が出来るぐらいに。少々無礼な所はあるが、小生にはそれを許容する度量がある」
「それでは、今後ソフィアの事を頼んでも宜しいでしょうか?」
「ふむ、君は明日当たり死ぬ予定なのかね?」
「いえ、もしも私の身に何かがあったらばです。何分、頼れる身内もいないので」
「よかろう。小生は音楽の分かる者には寛容だ」