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 まさか、ここまで手が回っていたなんて。
 夜の路地の片隅で、バジルは出来る限り体を丸め込み姿を隠していた。外には一般人の外出を控えるよう戒厳令を触れ回る憲兵達が巡回している。それと同時に、自分が憲兵に追われている実感も恐怖として感じていた。それも以前味わった危機感とは比べ物にならない、文字通り死ぬか生きるかの極めて深刻な恐怖である。
 捕まる捕まらないといった緊張は何度も味わってきたが、それも数をこなせばやがて後先を考える想像力の余裕が生まれる。しかし、今はその余裕があっても想像の幅がただ一点に狭められている。この街で盗みを働いた者は最低でも禁固数十年、最悪では絞首刑である。常に頭の片隅に置いている法律の一文なのだが、今ほどこの言葉の重さを実感した事は無い。
 本当に、いよいよ潮時か……。
 バジルは奥歯を噛み締める力も無く、そう小さく息を吐いた。体中には幾つもの痣があり、脇腹と右腕にも僅かながら新しい刃傷がある。受けた時は痛覚ぐらいにしか思っていなかったが、これが自分へ向けられた明確な意思であると思うと恐怖で足が竦みそうになる。
 言われてみれば、今日の職場は確かに不自然だった。数日前に臨時雇いの掃除夫として入った街の金貸し業者、この街でも指折りの利益を上げているから一日分の売り上げぐらいは無くなっても潰れたりしないだろうと、入念に下調べをした上で遂に実行へ移したのだが、どういう訳か事の最中にいきなり憲兵が踏み込んで来てこの有様である。殴られ切りつけられながらも、どうにか致命傷だけは避け方々の体で逃げて来た。
 街を巡回する憲兵は剣の他に普段は携帯しない槍も携えている。裁判も何も無い、その場で処刑するつもりなのだ。犯人が自分であると完全に確信しきっている。
 もはや逃げ道がどうとかいう状況ではない。初めから自分が犯人として分かった上で憲兵は動いている。あの業者も憲兵に協力していたのだろう。今日まで自分は彼らに、決定的な瞬間を押さえるため泳がされていたのだ。
 自分だと目星をつけていたのであれば、とうに素性も全て洗われているだろう。今頃、自宅へ別の憲兵が向かっていてもおかしくはない。ただ、自宅には今ソフィアの他にグリエルモがいる。彼ならきっと異変を察知し安全な所へ一緒に避難してくれているだろう。
 今思い返すと、グリエルモがうちへ来ることになったのは、何らかの意思が引き合わせた事なのかもしれない。正体は未だに不明だが憲兵ぐらいは物とも思わない彼、グリエルモがいるならばソフィアは助かるだろう。しかし自分はどうしようもないほどの八方塞がりで、全く助かる見込みはない。今度こそグリエルモが現れてくれるような事もないだろう。いや、そもそも自分は、救われるには罪を重ね過ぎてしまったのだ。だからせめて娘だけはとグリエルモが使わされた。今の状況はまさしく、神の選別である。
 慎重に憲兵の足音を聞きながらゆっくり闇から闇へと移動していくバジル。しかしあちこちに打撲傷を負い疲労した体では足取りが思うようにならず、やがて暗がりに転がっていたゴミバケツに蹴躓き、派手な音を立てて転倒してしまう。
「いたぞ! そこの暗がりだ!」
 その一言で、瞬く間に冗談のような数の憲兵が押し寄せてくる。すぐに立ち上がろうとするものの、体には普段のような力が入らず逃げるどころか歩くことすらままならない。元々身を隠す場所も少ない裏路地である、もはや小手先でどうにかなる状況ではない。
 もはやこれまで、か。
 周囲をぐるりと取り囲まれるバジル。それぞれが手に剣や槍を構え、少しでも逃げる素振りを見せようものならたちどころに切りつけられるだろう。そして抵抗するにしても、元々バジルには憲兵どころか子供一人殴る度胸もない。
「まだ殺すなよ。憲兵長は公開処刑を望んでおられるからな」
 じりじりと慎重に間合いを詰めていく憲兵達。バジルも素振りだけ抵抗の構えを見せたがまともに立ち続ける事も出来ず、やがて持ち上げた両腕を溜息と共にそっと下ろした。
 ごめん、ソフィア。父さん、もう帰れないかもしれない。