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「お父さん、遅いね」
 日もとうに暮れ時間も随分と経っているが、未だにバジルは帰宅していなかった。何か急な仕事でも出来たのだろうかとソフィアは夕食を先にグリエルモと食べくつろいでいたが、帰宅の遅い父親の事が気がかりでそわそわと視線を泳がせている。父親の帰りがこれほど遅いのは非常に珍しい事である。以前、帰宅が遅れた時は、街で酔っ払いに絡まれ殴られたと、顔に痣を作っていた。その時の印象が強く、どうしても何か良くない事に巻き込まれているのではと想像してしまいがちになる。
 そんな落ち着かない様子のソフィアに対し、グリエルモはいたって平素の様子だった。
「子供ではないのだ、彼にも色々とあるのだよ」
「グリだって私と大した変わらないクセに。大体グリって幾つなの?」
「小生、齢は百と三十七である」
「ふうん、そう。思ったより若作りだね」
 いつものなりきり竜か、と溜息をつきながら頬杖で玄関を眺めるソフィア。ドアの外は相変わらず静まり返っている。都心から離れたここは夜に限らず昼間でもひっそりと静まり返り、風の音すら際立つような僻地である。街は人が集まるので空気が良くないとは言うが、むしろ都心に住むだけの経済力が無いというのが実際である。
 のんびりとお茶を飲みながらくつろぐソフィア。食後に飲んだ薬が効いてきたせいか、少しずつ瞼が重くなっているのが分かった。あくびの数も増えている。
 このまま待っていても、帰ってくるより先に眠ってしまうだろう。そう考えたソフィアは今夜はもう床につこうとおもむろに立ち上がった。
 しかし、その時だった。不意に外から足音が聞こえてきたような気がして足を止め、耳を澄ます。ようやく帰ってきたのかと思ったが、その足音は複数聞こえる。しかもその中に、聞き慣れた父親の靴音ではない。
 そもそもドアを挟んで正確に足音など聞き分けられるはずもないだろう、きっと普通に帰って来たに違いない。
 そう思い直したソフィアだったが、間もなくドアの外で足音が止まるといきなり乱暴に叩かれた。尋常ではない様子に、ソフィアは見る見る青褪める。バジルが帰ってきた訳ではない事はともかく、その留守中に何か恐ろしいものが訊ねてきたのが恐ろしかった。
「ソフィーは下がっていなさい。小生が出よう」
 いつになく神妙な表情で立ち上がったグリエルモはソフィアを廊下側まで下がらせると、自ら鍵を外しドアを開ける。
 ドアの外に立っていたのは二名の憲兵だった。それもどういう訳か、平素は持ち歩かない槍を手に携えている。未だ憲兵の事を良く理解していないグリエルモだったが、友好的な気持ちで訪れた訳ではない事ぐらいは感じ取っていた。
「何か用かね? 主なら留守だが」
「主に用はない。あるのはその娘だ」
 グリエルモに相対するのは、いかにも現場慣れした様子の壮年の憲兵だった。細身とは言え上から見下ろしてくるグリエルモに対し、まるで臆する事無く真っ向から見返してくる。
「あ、お前は! この間の奴じゃないか!」
 すると、傍らの若い憲兵が唐突に声を上げた。
「小生を知っているのかね? すまぬが、あいにくと小生は猿の顔など大体でしか覚えておらぬのだ」
「相変わらずふざけた野郎だな。丁度いい、ついでに連行しましょうよ」
 そう壮年の憲兵に息巻く若い憲兵。しかし彼は軽く顔をしかめただけで、邪魔だとばかりに後ろへ追いやる。
「余所者に用はない。この家にバジルの娘がいるはずだ。出せ」
「ソフィーは病床の身である。出せぬね」
「ここに裁判所の強制執行証がある。従わぬならば、貴様にも重い罰を受けてもらう事になる」
「こんな音符も書けぬ汚い紙に従う理由はない。小生はここの主に代わり留守を預かっている身である。通す訳にはいかぬな」
「その主人であるバジルは、ついさっき窃盗の罪で逮捕した。あいつは二度とここへは帰って来れないぞ」
「逮捕? なんだね、その風習は」
 聞き慣れぬ言葉に首を傾げるグリエルモ。その仕草がとても小馬鹿にしているようには見えなかった壮年の憲兵は、僅かに眉尻を持ち上げ戸惑いの色を見せる。しかしもう一人の若い憲兵は反射的に食って掛かろうとし、再び制止される。
「良くは分からぬが、とにかく君らはソフィーを連れてどうしようというのかね?」
「そういう上の命令だ。おそらくは共犯者として裁くのだろう」
「ソフィーは裁かれるような事などしておらぬよ」
「貴様の意見など関係無い。この街の司法がそう決めたのだ」
 これ以上の無駄な話し合いを続けても仕方ない、と壮年の憲兵は実力行使へ踏み切る事にした。
 まずは出入り口を立ち塞ぐグリエルモの体を除けようと、袖を掴み家の外へと引っ張り出そうとする。しかしグリエルモの体はびくともせず、本人も何をしているのかと不思議そうに小首を傾げている。確かにグリエルモの方が背丈こそ上かもしれないが、明らかに着痩せではない細身で筋肉と無縁の体格をしている。未だ日々の訓練を欠かしていない自分が力負けするなど考え難いのだ。しかし現にグリエルモをぴくりとも動かせずにいる。
「おい、抵抗する気か!?」
「何の事かね? 小煩い猿だな。それと、そこの年寄りも小生の服を引っ張るのはやめ給え」
 そう言って壮年の憲兵はあっさりグリエルモに手を解かれてしまった。
 この男を見た目で判断するのは危険だ。久方ぶりに緊張感が背筋を走った壮年の憲兵は、おもむろに腰の剣へ手を伸ばした。最近は市民からの不満が多いから出来る限り剣は抜くなと上からは言われているが、この場合は任務達成のため止むを得ないだろう。幾つか条文を頭の中で復唱し問題無い事を確認した後、しっかりと柄を握り静かに口を切った。
「待って!」
 その時だった。不意にグリエルモの横から、奥へ隠れていたはずのソフィアが二人の間へ飛び出してきた。
「お父さんが捕まったって本当なの!?」
「ああ、そうだ」
「酷い! 元はと言えばあなた達役人のせいなのに!」
「なら、法廷でそう言えばいい。おい、連れて行け」
 自分からやって来てくれたのであれば、この面倒なグリエルモを始末する手間が省ける。すぐさま若い憲兵は指示に従いソフィアの腕を掴み、拘束具をかけようとする。だが、
「盛るな」
 その顔をグリエルモがいきなり平手で張った。思わぬ衝撃に僅かによろめく憲兵だったが、すぐに怒りで顔を真っ赤にしてグリエルモに食って掛かる。
「お前いい加減にしろよ! この場で殺されたいのか!?」
 しかしグリエルモはそんな憲兵などまるで眼中に無いらしく、小刻みに震えるソフィアを傍らへ引き寄せそっと肩を抱いた。
 ソフィアはただでさえ血色の良くない顔を真っ青にして震えていた。バジルが逮捕されてしまったと聞いて相当のショックを受けている様子である。グリエルモにはそれが何を意味するのかよくは理解出来なかったが、少なくとも憲兵達がソフィアやバジルに対して危害を加えようとしている事だけは分かった。
「もういい、これ以上時間をかけても不毛だ。こちらに従わなければ家を燃やす。嫌ならば二人揃っておとなしくしろ」
「どうするんだ!? 従うのか!? 従わないのか!? どの道ここには帰って来れないんだから、同じ事だがな!」
 二人の憲兵の高圧的な態度。それにソフィアは小さく悲鳴を漏らし、視線も空ろなまま自らグリエルモへしがみついた。密着したグリエルモの左腕にはソフィアの震えが直に伝わってくる。そんなソフィアに対し憲兵達は、特に若い憲兵は容赦なく言葉を次々と浴びせてくる。その言葉一つ一つに奥歯を鳴らし肩を震えさせる。グリエルモは自分が頼られている事を感じ取った。唯一の頼りである肉親がどこかへ連れ去られ、今自分もそうなろうとしている。もはや頼る者が自分しかいない。ソフィアの置かれたこの境遇に、グリエルモは生まれて初めて胸を抉られるような苦しさを感じた。
 そして、
「いい加減にしろ、この猿風情が……!」
 終始飄々としていたグリエルモの表情が急変する。その予想もしなかった迫力に二人の憲兵は思わず息を飲み、咄嗟に後ろへ飛び退いてしまった。
 グリエルモの体が一瞬ざわつくと、まるで枯れ枝を踏んだような小気味良い音が連続して聞こえ始める。それと同時に少しずつグリエルモの輪郭が膨れ始めた。