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「小生は非暴力主義者だが、貴様らの行為は目に余る。したがってしばしの間、この烈火の如き獣性へ身を委ねよう」
 不気味な音を立てながら変貌していくグリエルモの姿、その異形ぶりに一同が戦慄する。唐突に起こったこの出来事があまりに非現実的過ぎて、にわかには日頃慣れ親しんだ現実の一部と受け入れる事が出来なかった。目の前にいる怪物の存在を認める事も出来ず、しかし自らの感覚そのものを疑う事は尚の事出来ず、ただひたすらその場に立ち尽くすばかりだった。
「ソフィー、中ヘ、入レ」
 既に人間の風貌ではなくなったグリエルモが、それに似つかわしい唸り声のような言葉を放つ。驚きと泣き顔の入り乱れたソフィアは、半ば呆然としながらも首を縦に振り慌てて家の中へと駆け込んだ。
「ちょ……なんだよ、こいつは!?」
「誰ニ向カッテ物ヲ言ウ、コノ猿ガ」
 グリエルモの膨張が止まらない。得体の知れない骨格や筋肉はやがて服を突き破るまでに至り、それはもはや人と呼べる姿ではなくなっていた。人間を軽々と鷲掴みに出来るような巨体、それを月明かりだけで眩しいほど輝く銀色の鱗が覆っている。手足には研ぎ澄まされた刃物のような長い爪、肩からは太く逞しい首が伸び、その先にあるのは爬虫類の一種を思わせる風貌の頭部、口は大きく太い牙を覗かせ、背中には折り畳まれた二枚が生え、その下には丸太のような尻尾がある。
 これらの特徴を合わせ持つ存在について、その場の誰もが同じ知識を持ち合わせていた。それが一般に竜と呼ばれる怪物で、人間などより遙かに優れた力を持っている事も、そして竜とは架空上の存在である事も、である。
「ひっ、こ、殺される!」
 架空上の存在であるはずの竜、だがそれのあまりに威圧的な風貌と存在感の前に、若い憲兵はすぐさま耐え切れなくなりその場から逃げ出していった。グリエルモはその後ろ姿を一瞥するがそれ以上の興味も持たず、視線を前方へと藻どす。
「まさか……そんな事があってたまるか……!」
 壮年の憲兵は辛うじて自らこの場に留まっていた。普段ならあれほど後先を考えてしまう剣も既に抜き放ち、それを構え冷静な素振りをすることでどうにか恐怖を抑えていた。しかし膝も肩も震えが止まらず、とても対等に対峙しているとは呼べない状態である。
「オ前、殺ス、命、無イ」
 片言に放たれる言語は、竜の身体的な構造のせいだろうか。そう思うのも束の間、グリエルモは夜空へ向かって大きな咆哮を上げた。獣とは比較にもならない迫力に満ちた巨大な声。彼にしてみればただの呼吸と同じ自然さで吐いたものだが、壮年の憲兵がぎりぎり踏み止まれていた僅かな気力をあっさり打ち砕いてしまう。
「く、くそっ! ここは退却だ!」
 闘争心も奪われ任務の遂行も放棄し、己の保身しか考える事が出来なくなった壮年の憲兵は、それでも最後の意地とばかりに強気な捨て台詞を残して踵を返すと、街へ向かって一目散に駆けていった。
 あの居丈高な憲兵が恥も外聞も忘れ醜態を晒し逃げる様。それでもグリエルモは満足しなかった。すぐさま逃げた二人の後を追うべく背中の翼を広げると、再び夜空へ向かって大きな咆哮を上げる。しかしグリエルモは、不意に何かを思い出したかのように動きを止めると、広げた翼を畳み、打って変わってこれまでの激しい感情を落ち着かせ首をうなだれる。
「……我、今ハ音楽ニ身ヲ捧ゲタリ」
 膨張したグリエルモの姿が元の痩躯の青年へ戻ったのは、それから間も無くの事だった。華奢な肩をがっくり落とし、表情は平素というよりも暗く沈んだものになっている。グリエルモは後悔をしていた。たとえ一時でも、怒りに我を忘れ猛ってしまった事が取り返しのつかない過ちとばかりに悔やんでいる。
 その浮かない心境のまま家の中へ入ると、そこではソフィアが椅子に座ったままテーブルの上に肘をついて頭を抱え塞ぎ込んでいた。グリエルモがドアを閉めた音でふと我に帰り、ゆっくりと顔を上げる。グリエルモは珍しく自分の心境を隠し、出来る限り人当たり良く微笑んで見せた。
「ソフィー、ベッドへ行こう。顔色が良くないよ」
「うん……」
 グリエルモに促されソフィアは椅子から立ち上がると、おぼつかない足取りで自室へと向かっていく。その後ろからグリエルモは、倒れては一大事とばかりにぴったりと張り付いている。普段ならばすぐ、馴れ馴れしくしないで、と罵声を浴びせるのだが、ソフィアは一向にグリエルモには構う素振りを見せなかった。それほどまで消沈している理由をグリエルモは、単に自分の本当の姿を見たからではないと思った。それだけにどう言葉をかけていいのか分からず、グリエルモは戸惑っていた。
 ソフィアは部屋に入るなり、すぐさま気だるい仕草でベッドの中へ這うように潜り込んだ。グリエルモは最後まで介助しようと右往左往していたが、ようやくソフィアがベッドの中から手を伸ばし、近づき過ぎだとサインを出してきたので、それでようやく安堵の笑みを浮かべた。
「グリって本当に竜だったんだね」
「ようやく信じてくれて嬉しいよ。でも、本当は人間にこの姿を見せてはいけなかったのだ。だから、誰にも内緒でいてくれ給え」
「いつも偉そうな口調だなあって思ってたけど、そりゃそうよね。竜なら人間なんて何でもないだろうし」
 ふと、唐突にソフィアが瞼を落とし口を噤んでしまった。それは単に眠りに落ちただけなのだが、突然の事にグリエルモは首を傾げ、思わず声をかけた。
「ソフィー?」
「ん……。ねえ、グリ。レディの前でその格好は無いよ」
「ふむ。確かに未開人のようだね」
 今のグリエルモが身にまとっているのは辛うじて残った破れたズボンだけであるが、グリエルモ自身はあまり気に止めていない様子である。そういう感覚が人間と竜の差なのだろうと、ソフィアはうとうとしながらそう思った。
「薬は飲んだのかね?」
「うん。だから今、凄く眠いの……」
「そうか。ならゆっくり眠るといい」
 グリエルモは甲斐甲斐しく布団をかけ直し、そっとソフィアの頭へ手を置く。しかしその手はすぐに払われ、ソフィアは寝返りを打ってグリエルモへ背を向けてしまった。
「本当は知ってたんだ」
 そして唐突に話し始めるソフィア。グリエルモはベッドの横へ膝をついて遠目がちに覗き込む。
「何がかね?」
「お父さんが何か悪い事をしてるんじゃないかって。そうじゃなきゃ薬なんて買えないよ」
「あの猿共が逮捕がどうとか言っていたが、それはどういうことなのかね?」
「法律を破った人は憲兵に捕まるの。それが逮捕。そして、この街で逮捕されたら普通は死刑になっちゃうわ」
「君のお父さんは殺されるのかね?」
「……多分、そう」
 グリエルモの無神経な言葉がソフィアの胸を抉る。しかし今はグリエルモが人間とは違う者だと分かった分、多少の食い違いは価値観の違いだと気を紛らわす事が出来た。
「ねえ、グリ。お父さんのこと、助けてあげられる?」
「何故、小生が? 小生にはそんな義理も恩も無いよ」
「竜って冷たいね。それともグリだけ?」
「良くは分からぬが、小生が変わり者とでも言いたいのかね? 小生は普通の竜だよ」
 小さく空返事し、深い溜息を付くソフィア。そこでようやくグリエルモは、自分が言うべき答えを間違っていた事に気づいた。断るにしても、ただ突き放すだけでは誰も納得はしないからである。
「どうしても駄目なの……?」
「元々、小生はあまり人間と深く関わってはならないと厳命されているからね。目立つ事ははしたくないのだよ」
「さっきは、あんなにやっておいて?」
「あれは、ソフィーを泣かせるからついカッとなってしまったせいだよ。それに、この先一人で生きるのが不安なら、小生が養ってあげよう。だから何も不安がる事は無いよ」
「人間なんて、竜にしてみればペットと同じだもん。だからそんな事が言えるのね」
「そんな事はないよ。小生はソフィーだけは気に入っているよ。ソフィーだって小生が好きだろう?」
「私は家族の方が大事よ。家族が……一番、大事……」
 そう言い終わるか終わらないかの内に、ソフィアは静かな寝息を立て始めた。どうやら本格的に薬の副作用が出始めたようである。
 グリエルモは無言のままじっとその寝姿を見つめていた。神妙な面持ちの裏で、ソフィアにはっきりと否定され胸を痛めていたが、それ以上に、共有していると思っていた価値観が実は自分の一方的な思い込みだったと知り、深い衝撃を受けて心が揺れ動いていた。あまりに予想外だったソフィアとの距離、早急にそれを埋めようと考えを巡らすものの、リアリストなソフィアの性格から考えて口先だけではどうにもならないという結論に至って終わるだけだった。
 なら、ソフィアが納得し喜ぶ結果を出す他ないだろう。
 それは何かと考えながら、グリエルモはそっと部屋を後にした。