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 青年は程なく踵を返すと、そのままふわりと彫刻の下へ飛び降りた。
 一同は突然現れたこの青年に困惑の色を浮かべた。あの彫刻の上へいつの間に登ったのかはさておいて、まずは遭難でもしたかのような風体である。身に着けているのは破れて短くなったズボンのみという、限りなく全裸に近い青年の格好。ファッションと評するにはあまりに常軌を逸しており、正常な人間なら羞恥心を感じてもおかしくはない。更に正気とは思えないのは、そんな丸裸に等しい格好の青年が、憲兵の一団へ真っ直ぐ歩み寄って来た事である。異様な風体で憲兵に突っかかるなど、裸で火の中へ飛び込むよりも遥かに危険な行為であるなど子供でも知っているのだが、青年にはまるで臆する様子など無かった。
「何だその格好は? 酒でも飲んでるのか?」
 明らかにまともではない様子の青年。その様子に一人の憲兵が苦笑しながら青年へ近づいていく。だが、
「どけ」
 青年はおもむろに憲兵の肩を掴むと、まるで物を取り除くかのように憲兵の体を目の前から払い除けてしまった。予想だにしなかった青年の腕力に憲兵は、前のめりになりながら低く宙を飛び顔から転倒する。
 お世辞にも太いとは呼べない腕で憲兵を無造作に払ってしまった青年、注意深くそれを見ていた幾人かの憲兵は途端に表情が引き締まる。
「何をする貴様!」
 転倒した憲兵はすぐさま立ち上がり剣を抜くと、怒りの叫びを発しながら青年を背後から斬り付けた。周囲が止める間も無く、憲兵の剣は青年の背へ吸い込まれていく。しかしその剣は、皮膚を突き破り鮮血を飛び散らせること無く、何故か異様な固い感触に阻まれ弾き飛ばされてしまった。鋼を打ったような衝撃がまともに腕へ返ってきた憲兵は、痺れるような激痛に剣を取り落とし、大口を開け目を白黒させながらその場で悶絶する。
「猿が。引っ込んでいろ」
 そしてゆっくり振り返ったグリエルモは、両腕を苛む激痛に屈み込み掛けていた憲兵に対して自らの膝を見舞った。それをまともに腹へ受けた憲兵の体は驚くほど高く垂直に浮かび、両手足を弛緩させたうつ伏せの姿勢で落下、そのまま動かなくなった。
「グリエルモさん! どうしてここに!?」
 これまで終始のらりくらりと気の無い返事ばかり返していたバジルが、驚きと動揺を露わにし声を張り上げた。この場にグリエルモがいる事が相当驚いている様子である。
「正直来るつもりは無かったが、ソフィーが泣いているのでね。連れ戻しに来たよ。さて猿供、今宵の小生は愛の言葉も語れぬほど気が立っている。さっさとこの場から立ち去るなら見逃してやってもいいぞ」
 声を張り上げるバジルに対し、グリエルモは普段とは別人のような冷徹な声で淡々と語り、視線をバジルから周囲の憲兵達へ向ける。
 まるで人が変わってしまったようだ。バジルは驚きよりも不安に胸を締め付けられた。奇妙な風体も、憲兵をあっさり伸してしまう腕力も、剣を素肌で弾き返す理不尽な芸当も、どれ一つ取っても軽視できない異常な事である。しかしそんな事よりも、どこか人とはずれた価値観と周囲を和ます愛嬌を振りまいていた彼が、笑顔を忘れ冷徹な表情で憲兵達と戦おうとする、その異常な姿勢が気がかりでならなかった。
「落ち着け。こいつは只者ではないぞ」
 一人の憲兵が厳しい声色でそう告げる。だが言われるまでも無く、その認識は全ての憲兵がとっくに持っていた。この青年が何者かは分からないが、少なくとも憲兵に対してあれほど躊躇い無く攻撃出来る人間が単なる一般人であるはずがないからだ。
 憲兵はゆっくりと武器を構えグリエルモを囲んだ。個々の能力はグリエルモに劣るため、連携した攻撃を試みるのである。しかし誰もが脳裏を過ぎる先ほどの光景を消せずにいた。冗談のような話ではあるが、果たして自分の武器はこの青年に傷を負わす事が出来るのか、どうしても完全には信じられないのである。
「そうだ、こいつ……思い出した。少し前に憲兵の取り締まりを妨害した奴の報告を聞いたが、それと特徴が同じだ」
「結界が得意だという魔術師か。だが、これだけの数を一度に防ぎきれるものか」
 法律と武力を盾に自らへの従順を強要する普段とは違い、ただひたすら相手を殺す事の確実性を追求しているためか、グリエルモを中心とした周囲に緊迫した緊張感と殺気が渦巻いていた。しかし当のグリエルモは、相変わらずつまらないものを見ているかのような直立の姿勢を続け、自分を取り囲む憲兵達を気に止める素振りすら見せていない。
 グリエルモには見ているだけで喉を押さえつけられるような、異様な威圧感があった。憲兵達は、自分達が有利な状況にあるというのに、その圧迫感のせいで逆に追い詰められているような気分にさせられた。
 グリエルモを追い詰めたのではなく、わざわざグリエルモの尾を踏みに来たのではないのか。この男は、本当に人間なのか? たとえ人間だとしても、魔術師と戦った経験など自分達には無いというのに勝算はあるのか?
 誰かがそんな疑問を抱き始めた、その時だった。
「いつまでぐるぐると回っている、この屑共が」
 不意にグリエルモが苛立ちながら吐き捨てゆっくり右足を上げると、そのまま足下へ向かって降り下ろし強く踏み締めた。直後、足下が生き物のように震えたと思うなり、憲兵達が次々と目に見えない何かに撃たれ吹き飛ばされた。
 憲兵達は傷こそ負わなかったものの、酷く混乱した状態で立ち上がり、そして目の前の光景に更に驚愕する。広場に隙間無く敷き詰められた石畳が、グリエルモを中心にした周辺が残らず剥がれ飛んでいたからである。