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 ソフィアは暗闇の中で苦しみ悶える夢を見ていた。何故自分が苦しんでいるのかを、目が覚めそうで覚められないからだと客観的に感じていたが、やがてそれが本当に苦しいのか疑問になった。本当は何も苦しくないのではと思えば、その通りあまり苦しく感じなかったからである。
 ふと額の上に冷たい何かが重ねられた。感触から、それが誰かの手だと気づき、体の感覚を確かめながらゆっくり目を開く。
 ソフィアの目の前にはグリエルモが椅子に座った姿勢でにこやかにこちらを見ていた。昨夜と服装が変わっているが、普段通りのどこかあどけない表情を浮かべている。
「おはよう。少しうなされていたようだね。お腹が空いたから、そろそろ御飯にしようよ」
「ああ、うん……」
 ほんの少し前に突然転がり込んできたというのに、まるで昔からこの家に住んでいたかのように振る舞うグリエルモ。危うく家族の一員と錯覚しそうになり、ソフィアは一度目を閉じて寝ぼけた頭の中を整理しようとする。しかし時系列の整理がつく前にグリエルモが体を揺さぶり急かしてきたため、仕方なく露骨な溜息をついて見せ体を起こした。
「病人に何するのよ」
「まだ具合が悪いのかい? ならきっと、薬の量が足りないんだ。今、残りの分を持って来てあげよう」
「やめて。とにかく今起きるから、グリは居間に行ってて」
「ならば、小生が食事の支度をしよう」
「余計な事したら、ぶつわよ」
「……致し方ない。小生は無力だ」
 グリエルモを追い出し一息ついたソフィアは、早速服を着替え身だしなみを整え始める。その最中、昨夜に起こった出来事を一つずつ思い出し、ゆっくり整理していった。夜になっても父が帰って来ないこと、憲兵が自分を連行しにやって来たこと、憲兵から父が捕まり今日にも処刑されること、その憲兵をグリエルモが追い返したこと、そしてグリエルモの正体が本当に竜だったこと。幾つかはあまりに突拍子も無いため、思い出した所で今ひとつ現実味が無く、まるで昨夜見た夢を回想しているような気分だった。薬の副作用はやや強いから、その影響で幻を見たか夢と現実の境がつかなくなっただけなのか、と自分を疑いたくなる。
 居間へやって来ると、そこではグリエルモが背筋を伸ばして座って待っていた。神妙な面持ちで身を強張らせ、視線は上目遣いで天井へ注がれている。普段の落ち着き無い浮ついた仕草から思えば、直視せざるを得ないほどの違和感が滲み出た状態である。
「何? どうかした?」
「ソフィーに言われた通り、おとなしくしていたよ」
 そう澄んだ瞳で答えるグリエルモだったが、視線を食卓へ落とせば調味料の配置が微妙に変わっていることに気づく。慌てて締めたらしい蓋も斜めにずれており、言葉通りただじっと待っていた訳でないのは明白である。
「御飯の準備するから、もうしばらくそうしてなさい」
「何か手伝えることは無い?」
「無いわよ。どうせ何も出来ないでしょ?」
「じゃあ、せめて歌を歌っているよ」
「そうね。じゃあマンドリンを弾くだけでいいわ。歌は要らないから」
 台所に立つソフィアの邪魔にならない所へ椅子を運び、グリエルモはそこに座りながらマンドリンを弾き始める。公害でしかない歌声とは違い、グリエルモの奏でる音楽は純朴で体の内側まで染み入るような心地良さがあった。独学なのか楽章の節々に妙な跳ねや音を引き延ばすといった癖があったが、それは逆に奏者の味わいとして好意的に受け止められる。きっと普段はあまり音楽を聞かない者でさえ、道端で耳にしたらふと足を止めて聞き入ってしまうだろう。
「グリって歌は下手だけど弾くのは上手だよね」
「音楽家だからね、当然だよ」
 音楽家を自称するには技術的に足りない部分が多いが、それにも関わらずこれほど自信を持って自らをそう言い切る度胸は人並みではない。むしろ、グリエルモがそういった機微とは無縁だからなのかもしれないが。
「体調の方はどうだい? 今朝は顔色が良いみたいだね」
「もうほとんど大丈夫よ。不思議な気分ね。あんなに長い間苦しんでたのに、薬を変えるだけでこんなあっさり良くなるなんて」
「良薬とはそういうものだよ」
「歌もうまくなる良薬があればいいよね」
 昨夜は次から次へと信じ難い出来事が輪をかけて起こったというのにこんな平穏な朝を迎えた事が、今は一番信じ難い。しかし、普段当たり前のようにいるはずの父親がいない事が、これが現実であることを物語っている。
 父親のいない事について、ソフィアは何となく訊ねる機会を逸していた。そしてグリエルモが自らそれについて語ろうとしない事で、大方の顛末が予想出来る。決してその予感が初めから無い訳ではなかった。ただ、あっさりそこへ落ち着いてしまった事を認めるのは、敗北感に似た感情が沸き起こるので拒否したいのである。
 やがて食事の準備が整い、二人は居間へ揃う。いつもはバジルが用意する食事だが、それをソフィアが代わった所で内容に変わり映えはなかった。元々種類を充実させるだけのレシピも知らなければ材料も無い。しかしグリエルモは普段通り嬉しそうな表情で取りかかった。音楽以外は適当にしか関わらないのだから食の嗜好もいい加減なのだろう、とソフィアは思った。
 やがて食事を終えお茶を飲み始めた頃、不意にグリエルモが改まった様子で打ち明けるように話しかけてきた。
「あの、ごめんね、ソフィー。実は昨夜の事なんだけど」
 ソフィアは一瞬動きを止めるものの、すぐさま何事も無かったかのように平素の振る舞いをする。グリエルモはソフィアの方を真っ直ぐ見られず、視線が食卓と天井を行き来していた。
「やっぱり駄目だったよ。君の父親はどうしても死にたいって聞かなくて」
「でしょうね。お父さん、そういうズルとか嫌いな性格だから。馬鹿正直で、ホントにいつも貧乏籤ばっかり」
「でもね、小生は全力を尽くしたんだよ。無理やり連れて来ようとしたけど、嫌だ嫌だと暴れるから」
「はいはい。分かるから」
「やっぱり殴ってでも連れ戻した方が良かったかな……?」
「私に訊かないでよ。グリの判断でしょう?」
 言葉を自分なりに選びながら説明するが、ソフィアの意外なほど淡白な反応に困惑するグリエルモ。もっと自分に対する失望感の込められた罵倒を浴びせられるとばかり思っていただけに、こうもあっさり受け流されては自分に任された仕事はあまり意味のないものだったのではないかと疑ってしまう。
「ソフィーは父親の事を嫌いじゃないよね?」
「好きよ。大好き」
「じゃあ、どうしてそんなに淡泊なんだい? 親が死ぬことになったら普通は落ち込むものだろう。しかも寿命じゃない上に、救う機会すらあったんだから」
「それでも、どういう選択を取るのかは何となく分かってたし、本人がどうしても譲れないのならそれを尊重してあげるべきよ。ただ、それが私の考え方と正反対だから呆れてるだけ」
「けど親が死ぬなら、本当に悲しくなくても悲しい振りぐらいはした方がいいよ。もしかすると死んで霊になってから悲しくなるかもしれないから」
「霊? ああ、それならそれで結構よ。思う存分言いたいこと言えるからね。お父さんはね、私が病気になったせいでお金が必要になったから悪いことに手を染めたのよ。私が病気なんかにかからなければ、憲兵に捕まって処刑されずに済んだの。それでも私の事を疎ましいなんて思わないのよ? 親だから当たり前? 人間性の事じゃない。そういう生き方が出来る人には、親だろうと何だろうと感謝すべきなのよ。私はただ守られただけの人だからね。冷淡に言おうが悲しみ暮れようが、もう自分の生き様を貫いたんだから、ただ素直に誉めればいいだけよ」
「で、でもね、ソフィー……」
「何も分からない癖に、知った口聞かないで。他人の癖に」
 やや語気を強め辛辣に言い放つソフィア。グリエルモはビクッと肩を震わせ驚くと、そのまま身を小さくし黙り込んでしまった。自分はしっかり言葉を選んで話したつもりなのに何故怒られたのか疑問だったが、闇雲に言葉を並べては再びソフィアを怒らせかねないため、ソフィアが落ち着くまで黙る事に決める。
 一方ソフィアの方は、自分が苛立って見せているのは悲しくて仕方ないからだと自覚していた。グリエルモの無神経な言葉が刺さってくるせいもあるが、とにかく今は父と結びつく事はなんであろうと涙腺を緩めてくるため、苛立ちへ転換させ奮起しなければどうにも平素の自分にはなれなかった。
 家族を失う辛さは何物にも代え難いと思っていた。しかしそれは違っていた。辛さは針で刺した程度の小さな痛みしかなく、それが消える事も無いまま延々と続くのだ。自分はある程度覚悟していたからその程度なのかもしれない。ただ今は、我を忘れ取り乱し悲しまない自分に困惑するばかりである。