BACK

 ソフィアのきつい物言いに、すっかり意気消沈し黙りこくってしまうグリエルモ。この状況を長引かせればそれだけ空気が気まずくなると感じたソフィアは、丁度最初のお茶が無くなる頃に自ら別の話題を切り出した。
「ねえ、グリはどこの出身なの?」
 すると、この状況で話しかけられた事がさぞ嬉しかったのか、グリエルモはこれまでの消沈ぶりが嘘のように目を輝かせて顔を上げた。
「竜の島だよ。この世界の中心にある、最も歴史が長く神聖な島」
「うちにも地図はあるけど、そんな島はないよ」
「じゃあ地図がおかしいのだろう。嘘の地図なんか今すぐ捨てて、竜族の地図を使うべきだよ」
 そう力説するグリエルモは普段と同じ調子で独特の世界観を展開する。けれどソフィアは、いつものように世汰話と聞き流さず真剣に聞いていた。グリエルモはそんなソフィアの様子に気づく事無く、ただ一方的に自分の話したい事だけをやつぎはやに並べ立てる。そのほとんどはすぐに理解出来る内容ではなかったが、それでもソフィアは可能な限り聞き取ろうと努めた。
「どうして旅に出たの?」
「偉大な音楽家になるため、音楽を極めたいからだよ。それには、竜の島は狭過ぎるのだ。小生より優れる者もいない事だしね」
「極めたいのは、音楽が好きだから? それとも有名になりたいだけ?」
「心を打たれたから、という所だろう」
 竜でもそういう人間らしい感情があるのか、とソフィアは冗談めいて肩をすくめる。
 いつしかグリエルモが本当に竜である前提で会話が弾んでいた。そもそも、昨夜のあの出来事を見せられれば否が応にも信じざるを得ない。薬の副作用による幻覚とも取れるが、むしろそれは現実を受け入れられない言い訳にしかなりそうにない。
「小生は竜族の中でも一番強くてね、竜の島では負け無しだったのだよ」
「思ったより乱暴者だったんだね。音楽家って感じじゃ無いわ」
「そうだね。当時の小生は暴力ばかりふるっては無意味な上下関係を作っていたよ。けどそんなある日、一人の精霊に出会って変わったんだよ」
「精霊?」
「海の精霊さ。海の精霊は音楽が好きでね、時折音楽会を開くのだよ。ある日、小生はその音楽界に偶然遭遇してしまってね。あの時の衝撃は今でも忘れぬよ。どれだけ殴られようと痒いとすら思わなかった自分が、会が終わる頃には感動のあまり立っていられなかったんだよ。あまりの出来事に混乱して子供のように泣き喚いたりもした。とにかく衝撃的だった。これまでの人生を全て否定し、自らを改めるぐらいに」
 グリエルモの泣き喚く姿を思い浮かべ、それが容易に想像出来た事で思わず噴出しそうになったが、よく考えてみれば竜の島にいた頃の話なのだから当然今の姿ではなくて昨夜も見た本当の姿の方での話になる。ただ吼えるだけでもあれほどの声量なのだから、果たして人生観が変わるほどの感動を受けた時はどれほどの声が出たのか、自然災害に置き換える事でしか想像がつかなかった。
「しばらくは海の精霊に音楽を教えて貰っていたが、すぐに教えて貰う事は無くなってしまってね。それで島を飛び出したという訳さ」
「感動したという割に随分とあっさりね」
「これも単に才能の賜物だよ」
 おそらく言葉通りではなく、あまりに覚えが悪くて体良く追い払われたという所だろう。仮にその精霊とやらが言葉通りの音楽を演奏するとして、グリエルモの公害にしかならない歌声をまともな美的基準で評価するとは思えない。それよりは、もう教えることは無いから修行の旅に出る事を勧めて遠ざけた方が理解出来る。
「ところでさ、昨日はお父さんを見つけたんでしょ? どんな感じだった?」
「手足を縛られて罪人のようだったよ。それ以外はいつも通りさ。ああ、何か言伝を頼まれたような気もするが、思い出せないということは大した事でもないだろう。気にしなくていいよ」
「そう。じゃあ思い出すまで殴ってあげるから」
「あ……きっと日の入りまでには思い出すと思うんだ。でも、大した事じゃないはずだよ?」
「本当にそうなのかは、私が決める事よ」
 捕まっているにも関わらずいつも通りの振る舞いだったという事は、やはり覚悟は決めていたということなのだろう。取り乱さなかったというなら、本人も納得し覚悟もし終えているという事である。冷たい言い方をすれば、本人が納得しているならそれはそれで良いだろう、と私は思う。自分も自分なりに、ある日突然いなくなるような状況も予想していなかった訳ではないのだ。今更取り乱すものか、と強がるぐらいの気概はある。
「良くある話では、あらかじめ遺書とか残しておくよね。どこかに隠してるはずだよ、きっと」
「ふうん、じゃあ早く持ってきて見せてよ? 言っとくけど、お父さんは自分の名前しか書けないわよ」
「絵や記号の類という可能性も……無いよね。ごめんなさい」
 思いつきで言いかけては、こちらに睨まれるとすぐに慌ててしおらしく謝る。
 グリエルモは普通の人間なら遠慮しおくびにも出さない事を平然と言ってくる。当然、辛うじて泣きたい気分を必死で堪えギリギリで平素を保っている自分にしてみれば、腹立たしいを越えて殺してやりたくもなるほどの無神経さなのだが、それが一度や二度ではなく当たり前の会話のように繰り返されると、もはやいちいち嘆き悲しむ気になれなくなっていた。出来るだけ追求しないように事実へ心の蓋を閉めているだけでしかないのだけれど、感情のまま泣き喚くのは自分の性でもないから、今は逃避でも良いのかもしれない。
 全てはほんの気休めで思考を停止させているだけでしかないけれど、今はその気休めに身を委ねておくのも悪くは無いと思った。同時に幾つもの事を処理するほど気持ちには余裕が無いのだから、積み上がった問題を少しずつ切り崩して消化していく方が押し潰される危険が無い。感傷に浸るのは、問題の山が半分ぐらいになってからでも十分遅くは無いはずだ。
 取り急ぎ心境の整理をつけると、平素の振る舞いに加えて軽く笑う程度の余裕も出てきた。食後のあまり体を動かしたくない一時、もう少しグリエルモの与太話に付き合ってやろうかとお茶を改めて注ぐ。
 しかし、その時だった。
「そうだ、でもね、連れてくる事は出来なかったけど、代わりに憲兵の奴らはちゃんとぶん殴ってきたよ」
 そう得意げに身振りも交えて話すグリエルモの言葉に、ソフィアの表情が凍りついた。
「ぶん殴ってきた? 憲兵に見つからないようにそっと忍び込んだとかじゃなかったの?」
「街中をぶらぶら揃って歩いてたからね。とりあえず殴って黙らせてからバジルとは話をしたんだよ。小生の非暴力主義には反するけど、ソフィーのためだから仕方ないよね」
「この馬鹿……っ」
 ソフィアはテーブルへ叩きつけるようにカップを置くと、突然勢い良く席から立ち上がった。驚きで肩をすくめるグリエルモを尻目に、そのままそそくさと自室へと戻っていく。良く状況が飲み込めないグリエルモは首を傾げながらすぐにその後を追った。
「ねえ、ソフィー。一体どうしたんだい? 二人はもっと語り合う時間が必要だと思うんだ」
「そんな暇があるか。ったく、どうしてそういう大事な事を最初に言わないのよ」
 明らかに苛立ち視線も合わせないソフィア。その様子がまるで理解出来ず、グリエルモは不安げな表情でひたすら後を追う。
「えーと、着替えはここにまとめてるから。後は当面の旅費だけど、お父さんの部屋を漁るしかないか」
 部屋に入るなりソフィアは大きなカバンを奥から引っ張り出すと、次々と部屋中を引っ掻き回してはカバンへと詰め込んで行く。そのあまりの勢いにグリエルモはより怪訝な表情を浮かべた。
「ソフィー? 一体どうしたんだい。小生はソフィーがいれば何も要らないよ」
「ちょっと邪魔!」
 ソフィアは部屋を飛び出し別な部屋へと向かい、そこからも部屋中を引っ掻き回す騒々しい音が聞こえてきた。その身軽さはつい先日まで外出もままならなかった病人とは思えない勢いである。しかしそれよりも、それほど急がなければならない事とは一体何なのか、グリエルモにはまるで想像がつかずただただ棒立ちのまま成り行きを見守るだけだった。
 やがて十数分ほど経過すると、ようやく騒々しい音が止まりソフィアが部屋からのっそりと現れた。手には膨れ上がった大きなカバンをどうにか引っ張り上げるようにして引き摺っている。明らかに自分の腕力と釣り合っていない荷造りである。
「じゃあ行くわよ。はい、これ持って。グリも忘れ物はないよね」
「行くって、どこに行くんだい?」
「決まってるじゃない。逃げるのよ。この家、憲兵に見つけられてるのよ? あんたが暴れたなら、今頃一個師団を編成しててもおかしくないんだから。もうお父さんと違って逮捕だ処刑だなんてレベルじゃないの。こっそり忍び込んだだけならまだ良かったのに……。あ、でも夕べの憲兵もあれを見ちゃってるんだから、遅かれ早かれ軍団でやって来るのは時間の問題よ」
 早口に喋り立てられ戸惑いながらカバンを持つグリエルモ。しかし言葉のニュアンスからこの家から逃げるという事だけは把握し、ようやくソフィアの行動の意図が掴め怪訝さが消えた。
「良くは分からぬが、なあに、あんな猿など幾ら束になっても小生が追い返すさ。竜は強い、誰もかなわぬよ」
「本当にグリは何も考えてないのね。いいからさっさと支度しなさい。無いなら行くわよ。表は鍵かけるから裏口からね」
「別にこそこそしなくたって……」
「私の言う通りにしなさい。それとも、私より人間の事について詳しいの? グリが良くても私が迷惑を被る状況なんて考えた事ある?」
「わ、分かったよ……。でもね、小生はちゃんと人間社会に溶け込んでいるだろう? だから、ソフィーの意見も分かるんだよ。でも譲るのは、ソフィーを尊重しての事だから」
「はいはい。じゃあもう出るわよ」
「あ、待って。我が分身を陰干ししたままだったから」