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 家を出て、向かう先は北の港町。一度船に乗ってしまえば追跡は非常に困難となるため大がかりな捜索隊が結成される事もなく、憲兵達の目の届かぬ所でほとぼりを冷ますには丁度良いからである。その際、障害となるのは港町までの道中に出没する山賊や野盗の類だが、それもグリエルモが一人いれば片づく問題であるため、あと気をつけるべき事は憲兵が先回りしていないかということだけである。
 出来るだけ目立たぬよう本道を避けつつ、本道から離れればそれだけ山賊に遭遇する確率も上がるため、付かず離れずの位置を意識しながら港町を目指して歩く。ソフィアは荷物を全てグリエルモに預け身軽ではあったが、久しぶりの遠出のせいか既に疲れきっていた。グリエルモはそのソフィアの足に律儀に合わせ、言いつけ通り周囲に不穏な気配は無いかと神経を尖らせている。
 太陽が真上に昇る頃にはようやく街も見えなくなり、本格的に山道へと入っていった。今のところ山賊や憲兵が現れる様子は無いが、最初の道の駅まではまだ半分にも満たっていないため、まだ休憩するにも尚早である。
「もう、終わったかしらね……」
 ふとソフィアは街側を振り返り、そうつぶやいた。最善の選択をしたとは言っても父親に別れも告げず出てきた事が心残りで、街から離れれば離れるほど後ろ髪を引かれる思いは強まっていた。
「最後に一目合わせるぐらいは出来るよ? ここからなら、飛んでも一息さ」
「いいわよ、別に。竜が出たーって騒ぎが起きる方が余計迷惑だもの。大体、わざわざそんな事をしなくちゃならないくらい、希薄な親子関係じゃないわ」
「父親が死んだのに悲しくないのかい? 子は親が死んだら悲しむものだよ。たとえ聞こえなくても、何でも無いように言うのは寂しいじゃないか」
「本当に無神経ね。少しは察したら?」
「ご、ごめん……」
 黙れというサインの意味で視線を送ると、途端にグリエルモは慌てて謝り口を閉じた。そこまで怯えるほど怖い顔をしたつもりはなかったが、自分では割り切ったつもりでも表情はそうではないのかもしれない。やはり父親の事は考えるべきではなかったと気持ちを改める。
 それからしばらくは言葉もろくに交わさず黙々と歩き続けた。元々、世話話をしながら歩けるほどの余力はなく、口を呼吸以外に使えばすぐに息苦しくなる。みっともない呼吸音に目を瞑れば病み上がりの貧弱な体力も誤魔化しが効いたが、やがてそれも限界に達し、遂にソフィアは仕方なく足を止めた。
「少し休むわよ」
「急いでいるんじゃなかったのかい?」
「こっちは病み上がりなのよ。少しくらい気遣ったら?」
「ごめん……。そうそう、小生も丁度そろそろ休みたいと思っていたところなのだよ。まさに運命的だ」
 グリエルモにそういった気配りが期待出来ない事は知っているが、疲れて気持ちに余裕が無いせいかそんな些細な事でさえも当たりたくなってしまう。何を言われても落ち込む事のないグリエルモだが、何度も感情的に八つ当たりを繰り返していれば申し訳なく思うのは当然だった。
 道端の大きな石の上に座り込むソフィア。グリエルモはその後ろへぴったりとついて立つ。近過ぎる気配が鬱陶しかったが抗議するにも体力が必要となるため、あえて無視し意識しないようにする。
 出掛けよりも気分が悪くなってきた自覚もあり、ソフィアは小さく溜息をつきながら熱の具合を見ようと額に手を重ねてみた。じっとりと汗ばんでいるのは無理を押して歩き続けたせいもあるが、単純に不調に拠る部分が大きい。
 ただでさえ体力も無く完治すらしていないのだから、本当ならこんな急の大移動は自殺行為である。薬はまだ残っているが、今飲めば楽にはなるけれど眠くなってしまう。港町へ辿り着くまでは、体調が多少辛くとも控えておくべきだろう。
「ねえ、あとどれぐらい歩くんだい?」
 そうグリエルモに問われ、ソフィアは家から持ってきた地図を広げ現在位置を確かめる。
「まだまだよ。半分もないわ」
「その地図は間違ってないかな? だって海が少ししか描かれてないよ」
「この地域を拡大してるからよ。世界地図一枚で歩ける訳ないじゃない」
「人間は細々しい生き物だね。地図なんて大体合ってればそれでいいのに」
「竜にはそれがないから、歌がうまくならないのよ」
 そんなものかな、と小首を傾げるグリエルモ。音程やテンポの取り方がいい加減なのは、生き方そのものが大雑把なためだろう。寿命が長過ぎて、細かい事を考える習慣そのものが竜には無いのかもしれない。色素を除いた見た目は普通の人間と変わりが無いだけに、今後は意識してこれは違う生き物だと見るべきだ。
「ねえ、ソフィー。とりあえず出てきたけど、これからどうするんだい? しばらく家には帰らないんだろう?」
「しばらくあちこちを飛び回ってほとぼりが冷めるのを待つわ。まあいずれはうちに戻って、ちゃんと荷物も整理しないといけないけどね」
「じゃあ一緒に音楽を極める旅に出かけよう! きっと楽しくなるよ!」
「そうね、路銀を稼ぐ手段は欲しいから、それしかないか。グリが演奏役で私が歌い手ね」
「商売じゃないよ、音楽の精進だよ」
「精進してない音楽はお金にならないわよ。つまりは同じ事よ」
「なんだか難しいのだね。とにかく、ソフィーの事は小生が守るが故、安心して旅を楽しめばいいよ。『あー、我は盾よー、決して破れぬ鋼の塊さー』」
「はいはい、頼りにしてるから、その気持ち悪い雑音は止めて」
 気持ち悪い、の一言にグリエルモはぎょっと体を硬直させソフィアの方を悲しげな顔で向き直る。さすがに言い過ぎたか、と眉尻を上げたソフィアは子供をなだめるようにグリエルモの背をさすると、途端にグリエルモには平素の明るさが戻った。グリエルモは色々と面倒な部分が多いものの、扱い方を覚えればさほど御するのは難しくはないかもしれない。そう考えると、この先のグリエルモとの付き合い方にも幾分か光明が差し込む。
「さて、そろそろ行きましょうか。まだ最初の目的地までは随分あるから急がなくちゃね」
「だったら、ソフィー、小生が背負ってあげるよ。『俺の背中は愛の揺りかごさー』」
「いいわよ、一人で歩けるから。少し休んだからもう大丈夫よ」
「でもね、あまりのろのろ歩いてると、きっと憲兵の猿共がやって来ると思うんだ。だから面倒なことになる前に早く行かなくちゃ」
「少し癇に障る言い方だけど、まあ少しは考えてるみたいだね。いいわ、ほら、乗り易いように跪きなさい」
 半ば冗談で言った事だが、グリエルモはソフィアの言いつけに嬉々として自ら従い片膝を着いて背を向けた。決して大きくは無いその背へそっと抱きつくと、グリエルモの手が背へ回り驚くほど力強く体を支えられながら立ち上がった。グリエルモの足取りは、人一人を背負うだけでなく荷物を指に引っ掛けながらだというのに、驚くほど軽快で安定感があった。竜は人間と比べ物にならない腕力があるけれど、貧弱な為りの人間の姿でもそれは変わらないというのは頼もしい限りである。
「グリの体って意外と柔らかいのね。もっとごつごつしてるかと思った」
「ソフィーだって柔らかいよ」
「ちょっと、どこ触ってるのよ!」
 思い切りグリエルモの頭へ肘を落とすソフィア。グリエルモは悲鳴こそ上げなかったものの、又しても悲壮感に満ち溢れた表情を浮かべ落ち込み始める。
 腕力は頼もしいが、この幼稚な部分をどう制御していくかが一番の課題か。そうため息をつきながら、投げやりにグリエルモの頭を撫でて慰めた。