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 視界一面に続く白い砂浜。その一角にあるコテージのベランダに二人はいた。
 海に面したベランダに大きなパラソルを立て、肌を露出し過ぎない程度の軽装でデッキチェアに横たわるソフィア。そしてベランダの手すりにグリエルモが腰掛け、マンドリンを静かに弾きながら時折楽譜に書き留めている。
「あー、気持ちいい。やっぱり違うわよね、こういう所は」
「本当だね。ああ、白く眩い輝きはまるで天使の羽のよう」
「あら、珍しく良い詩が出来たじゃない。そういう感性って環境に因るのかしら」
 そう無邪気に笑うグリエルモに、ソフィアは優しく微笑み返した。普段なら苛立ち交じりに雑な受け答えをするソフィアだが、ここ数日は何もかもが自分の思う通りに進んでいるため機嫌が良く、精神的な余裕があったのである。
 二人がいるのは、地図上では南西に位置する大連星諸島という地域である。年中温暖で雨も少なく過ごしやすい気候であり、様々な海洋資源も豊富にある恵まれた地域である。五十を超える大小の島々で構成されるこの国の首都は、南西地域の経済の拠点となる経済都市だが、都心を離れれば国内外からの観光客用のリゾート地帯が並ぶ観光や保養地としての側面もあった。
「ねえ、グリ。そろそろお昼だから、何か食べに行きましょう。今日は何にする?」
「んーと、そうだね。今朝新聞に載ってた、今日捕獲された人食いサメが食べてみたいな」
「やあね、サメなんて食べたっておいしくないわよ? それなら、何か美味しい魚料理を出す所にしましょう」
 グリエルモの人とはズレた言動はいつもソフィアを呆れさせるものだが、今は違う。つまらない冗談とばかりに笑って受け答える寛容さがあった。その余裕はソフィア自身もはっきりと自覚し、優越感に浸っていた。余裕と寛容を持つ事で自分の位が引き上げられたような錯覚を味わえるからである。
 ソフィアがこの地を選んだのは純粋な趣味の他に、良好な治安状態と排他的な治安維持体制にあった。
 大連星諸島の治安は、施錠がなくとも外出が可能であったり女性の夜間の一人歩きが可能であったりするほど非常に良好である。それは表向きには治安機構が厳重な取り締まりを行っているためとなっているが、マフィアのような裏社会の組織が活動資金のための拠点としているため裏で独自に取り締まっているという理由もある。そんな表と裏の微妙なパワーバランスで治安が保たれているためか、外部から別の組織が入り込む事に対しては表裏問わず強い拒絶反応を示す。自らの地域で起こった問題は自らが解決するという一貫した姿勢を貫いている。つまりソフィアにしてみれば、これまでに起こしてきたいざこざに対しての追求を逃れる事が出来る理想的な地域なのだ。
「ねえ、グリ。ほら、また見られてるよ? やっぱり目立つのかしらね」
「はっはっは、小生はソフィー一筋だよ? 豚の群れなどさほどの興味も無いね。『ああ、我が意思は美食なる獣さ』」
「気持ちは分かるしその詩は戴けないけど、悪い言葉は思っても口にしちゃいけないわ。ここの憲兵にまで目を付けられたら面倒でしょ。せっかく羽根を伸ばしに来たんだから。ね?」
「心得たよ。優しいソフィーが好きだからね、小生はソフィーに従うだけさ。でも、小生の背に生えるのは羽根では無く、誇り高く大翼と呼んで貰いたい」
「とりあえず、前を向いて歩きなさいな。危ないわよ」
 大連星諸島には各国から人が集まってくるため、実に多種多様な人種が見受けられる。その中でもグリエルモの容姿は一際目立っていた。普段なら目立つ事をあまり快く思わないソフィアだが、今はあまり気にも留めなくなっている。たとえ目立った所で実害を起こしていないグリエルモをどうこう出来る訳はないからである。
 宿泊施設の立ち並ぶ海岸線に平行する商業地域は、静かな宿泊地帯とは打って代わって終始賑やかな喧噪に包まれていた。
 ほぼ一日中人が行き交う商業地域は、客層に合わせた様々な種類の店が無数に軒を連ねている。中には世界的なメーカーの直営店や他国では販売そのものが禁止されている禁書なども売られているため、買い物目当てで大連星諸島を訪れる者は少なくない。
 ソフィアは手持ちの余裕から、高級店が集中する中心街へと足を伸ばした。ここまで来ると客層も変わり、落ち着き払った気品のある人が目立つようになってくる。いささか自分達には場違いなようにも思えたものの、すれ違い様にグリエルモを振り返る羨望の眼差しを何度も感じている内に自然と馴染むようになってきた。単純にグリエルモの容姿が人並み外れている事への驚きなのだが、何か一つでも勝っている自信があれば不思議と劣等感は感じなくなった。
「ねえ、ソフィー。最近歌ってないけれど、ここでは営業はしないのかい?」
「しないしない。変に商売して怖い人に目をつけられると厄介でしょ」
「されど小生、音楽の無い人生は牢獄に等しいよ。我が魂はさながら地獄に繋がれた小鳥のようさ」
「営業じゃなければいいんだから、どこか普通に歌って踊れるような所があればいいんだけどね。その内なんとかしてあげるから、今は我慢なさい」
 さて、そろそろどこかの店に入ろうか。それとも、もう少し奥まで歩いてみようか。
 当分はこの街に滞在するのだから、今日入れなかった店は明日に入ればいいのでそれほど迷う必要は無い。そういつものように立ち並ぶ店を眺めながら吟味していたその時だった。
「あ、あ、あのー……」
 不意に二人は、背後から消え入りそうなほど遠慮がちな声で呼び止められた。振り返るとそこには、見慣れない一人の女性が立っていた。視線をしきりに上下させ、胸の前で握り合わせた手を何度も組み直し、非常に落ち着きが無い。よほど気恥ずかしいのか、なかなかこちらの顔を正面から見ようとしない。
「何かしら?」
「その、私、ヴォンヴィダル家の侍女をしておりますエミリアルと申します。は、初めま……して」
「はあ。初めまして」
 小首を傾げながらエミリアルと名乗る彼女を見やるソフィア。年齢は自分よりも二つか三つほど上、胸先ほどある栗色の髪を二つに束ね、服装は一見すると地味だが生地はただの量産品ではなくそれなりの物。印象としてはあまり目立ったものは無かったが、どことなく雰囲気は庶民のそれとは一線を引いている。
 ヴォンヴィダル家という名に聞き覚えは無いが、そう表するという事はおそらくどこかの貴族なのだろう。保養地に貴族がいても何らおかしくは無いが、自分には貴族の知り合いはいない。声をかけられる理由は思い当たらない。
「それで、その、もしお時間があれば良いのですが……少々お目を拝借しまして、あちらをご覧下さい」
 エミリアルは唐突に自分の右側を促した。
 そこには一軒の白いオープンカフェがあった。晴れ渡った空に似つかわしい、外壁と同じ白のテーブルとイスが十数対並んでいる。客はまばらで、いずれも楽しげに語りながらのどかな昼時を満喫している。そんな中の一角を、エミリアルの示す彼が陣取っていた。
 丸いテーブルには席が五つ並び、通りから見て中央に当たる席に一人の青年の姿があった。その青年はこちらの視線に気づくと、静かにカップを置いてにこやかに手を振った。如何にも社交界で磨き抜いたと言わんばかりの、貴族の見本のような振る舞いだとソフィアは思った。
「わ、我が主人が、是非お話をしたいと申しておりまして、その……お時間を戴ければ……」
 雰囲気からすると確かに貴族の出身には違いなさそうである。体も特別逞しくは見えないが、一通り貴族としての嗜みはこなしていそうである。しかし元々縁の無い世界の人間でもあってか、それ以上の感想も抱かなかった。よってわざわざ時間を割く理由も、暇の有る無しに関係無く持ち合わせない。
 だが、
「よろしい、案内し給え」
「は、はい! ありがとうございます!」
 気が付くとグリエルモは勝手に了解していた。慌てて訂正しようとするものの、既にエミリアルは舞い上がっているのか緊張した顔を紅潮させ、何やら定型の文言らしい言葉を喋りながら案内を始めようとしていた。そして連れられる気満々のグリエルモは例の如く何も考えておらず、これまでの失敗を一つとして学習していない。そんなグリエルモだけ向かわせる訳にもいかず、ソフィアも渋々ながらエミリアルに連いていくしかなかった。
 嫌な予感がする。
 これまでの流浪の生活を振り返ってみると、相手から向かって来た場合は一度としてろくな目に遭わない。自分では何をしている訳でもないというのに、何故か常人とは一線離れた者が自然と集まってくるのだ。数ヶ月も記憶を辿れば、そこは奇特変態の展覧会である。
 ソフィアは数日ぶりに表情を苦々しくしかめた。自らの境遇から磨かれた直感は鋭く、ほぼ間違いなく面倒事は即座に察知できるのだが、そのほとんどが既に逃れられない状況まで来てしまった後なのである。