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「これは一体何なのかね? みたところ、小生の持つマンドリンと同じもののようだが」
 手渡されたその書類を前に首を傾げるグリエルモ。
 書類にはマンドリンの精細なスケッチが様々な方向から描かれていた。更に下には如何にも上等らしい羊皮紙が一枚重ねられていたが、その内容は複雑な文面ばかりでグリエルモには理解出来なかった。
「それは、かの名匠三代目エンベルンの最高傑作『青髭男爵』です。グリエルモさんほどの方なら、名前ぐらい耳にした事があるでしょう?」
「ん? あ、ああ、あの有名なアレだね。無論知っているよ。凄いよね、アレ」
 明らかに知ったかぶりをしているグリエルモ。ヴィレオンは別段反応も見せず、エミリアルは気まずそうに視線をそらす。
 ひとまずこのスケッチが、高級で珍しいマンドリンであることは理解したグリエルモ。俄かに興味を引かれ、今度はしげしげと食い入るように見つめ始める。
「実は私、この『青髭男爵』を所蔵しているのですよ」
「ほう、それでは君も弾くのかね」
「嗜む程度に、楽器は一通り。楽譜が無いと三小節もおぼつきません。何度か自分で弾いたことがあるのですが、やはり名器というものは生まれるべくして生まれるのでしょう、そんな私でも実に素晴らしい音色だと分かりました」
「そんなに凄いものかね? これは」
「初めは懐疑的でしたが、実際に触ってみれば分かりますよ。まさに芸術、職人芸、世界中の音楽家がこぞって大金をつぎ込んだのも理解出来ます」
「なるほどねぇ……」
 ヴィレオンの話にますますマンドリンへの興味を引かれてきたグリエルモ。口調はそれを悟られぬようにと素っ気なくしてはいるものの、全身から溢れ出る興味と羨望の気持ちは隠せてはおらず、訊ねるまでもなくグリエルモがこれを欲しているのが分かった。
「それで何かね。そのマンドリンが良いものだというのは分かったが、小生にどうしろと言うのかね。ただの自慢ならその首を捻切るぞ。どういうつもりかね、まったく」
「失礼、蛇足が過ぎましたね。それでこの『青髭男爵』ですが、私が持っていた所で無用の長物、ならばいつかこの名器にふさわしい人物が現れたら譲り渡した方が良いだろうと、そう思っていたところです」
「なんと!? ふむ、いや、それで? それでふさわしい人物は見つかったのかね? いや、これは単なる好奇心だよ。別段下世話な他意はないよ。ただ気になるだけである。小生も音楽家、偶然にも同じ、マンドリン弾きである」
 グリエルモが目に見えてそわそわと落ち着きを無くし始める。明らかに今の話からヴィレオンのマンドリンへの興味が強まっている。垂らした糸の餌にまんまと食いついてくれた事にヴィレオンは、密かに口元を綻ばせた。それからヴィレオンはエミリアルにワインを要求し、口に含みながら焦らす様にわざと時間をかけて飲み干すと、床から足の裏をつけたり離したりを繰り返すグリエルモに悠然と構えながら遂にそれを切り出した。
「グリエルモさん、落ち着いて聞いて頂きたい。今お渡ししたそれは『青髭男爵』の所有権利書です。もし私のお願いを聞いて戴けるなら、あなたにお譲りいたしましょう。あなたほど方なら、これを持つに申し分ありませんから」
「ほ、ほ、本当かね!? いや、小生は落ち着いているよ!」
「無論です。ヴォンヴィダル家の名にかけて、私は嘘偽りを申しません。だから落ち着いて下さい」
 はっきりと確約するヴィレオンに言葉に、グリエルモはこれでもかと破顔し浮かれ始める。とても外見からの年相応には見えない幼い行動に、エミリアルは眉をひそめ訝しげにその様子を見つめる。あまりに不安で一度ヴィレオンに確認の視線を送ってみるものの、ヴィレオンは悠然と構えたままワインを求めるだけだった。
「良く分かった、ありがたく戴くとしよう! 君は実に物の価値の分かる素晴らしい人間だ。小生これほどの人物に出会ったことは無いよ。それで小生は何をすれば良いのかね?」
「これからしばらくの間、私と行動を共にし、ある事をして頂きたいのです。そのためにはまず、我々の身の上を説明しなければなりません」
「ふむ、そうかね。それでは遠慮なく頼むよ。ああ、君。小生にもその赤いのを寄越したまえ」
 グリエルモはさほど味も分からぬワインを注がせ、鼻歌交じりに機嫌良くそれを飲み干す。体質上、人間の酒に酔う事は無いグリエルモではあるが、そのあまりのはしゃぎぶりには酔っているのと大差は無い。
「実は私、このエミリアルとの結婚を望んでいるのですが、一つ大きな問題があって困っているのです。私には兄が二人いるのですが、この二人がそれを妨害してくるのですよ。別にエミリアルの事などどうとも思っていないくせに、私に対する当て付けでしょうね」
「なるほど、けしからん兄だね。こんな良い物をくれる人に嫌がらせとは」
「そんな中、私の父がヴォンヴィダル家の家督を私達三兄弟のいずれかに譲ると言われました。そこで私は家督を得て、兄達をどこぞの僻地にでも飛ばそうかと思っています。しかし、当然の事ながら家督を得る権利は二人の兄にもある訳で、家督を得るためには父から出された課題を一番最初に達成しなければなりません。そこでグリエルモさんには、この課題について協力して戴きたいのです」
「面倒な事だね。その馬鹿兄二人を殺せば良いであろうに」
「さすがにそういう訳にはいきませんよ。父も不穏な動きに対しては予防線も張っているようですし。早まった真似をすればきっと、家系図から消されてしまいます」
「よく分からんが、温かい家庭だね」
 既にマンドリンを貰った気になっているのか、話半分でまともに聞いていない様子の見受けられるグリエルモ。しかしヴィレオンは構わずにややテンポを早めて話を続ける。
「それで、その課題についてですが。私の父は、銀の竜を連れて来た者に家督を譲る、と仰いました。そこでグリエルモさんには銀の竜に成り済まして頂きたいのです」
「君はまた無茶を言うね。小生、どこからどう見ても極普通の人間である。竜の真似は出来ないよ」
「それは大丈夫です。竜の掟で人間に本当の姿を見せてはならないから、と言えば良いでしょう。幸いグリエルモさんの髪は銀髪だから、銀の竜の仮の姿で十分通じるはずです。なかなかいないものなのですよ、銀髪の人間というものは」
「なるほど、その手があったか。しかし、竜である事を証明しろと言われたらどうするのかね?」
「それは簡単ですよ」
 そう微笑むや否や、突然ヴィレオンは傍らに控えていたエミリアルのスカートの中へ左手を突っ込んだ。驚きの声を上げ後ずさりながら裾を押さえるエミリアル。だがそれよりも早く、ヴィレオンはスカートの中から掠め取ったそれをグリエルモへ向かって投げつけた。
 投げられたそれは、そのまま真っ直ぐグリエルモの口の中へ吸い込まれるように命中する。
「やっぱりまだ隠し持っていたね、エミリー。油断も隙もあったものじゃない」
「い、幾ら何でも、このような……」
 グリエルモの口から飛び出しているかのような格好になったのは短剣の柄だった。刀身は完全に口の中へ入っていて、先端は喉の奥へ達しているかのように見受けられる。普通の人間ならほぼ即死、しかしグリエルモは血の一滴すら漏らしてはおらず、口内の短剣を引き抜かずにそのまま勢い良く噛み砕いてしまうと、残った部分も音を立てて食べてしまった。
「貴様、何をする!」
 いきなり短剣を投げつけられた事に憤るグリエルモ。しかし、
「いや、素晴らしい! さすが一流の音楽家は違う!」
 すかさずヴィレオンも立ち上がると、憤慨するグリエルモに向かって早口でまくし立てるように褒め称え始めた。
「試すような真似をして申し訳なかった。しかし、さすがはグリエルモさんだ。ナイフぐらいじゃびくともしない。かつて神の指先を持つと謳われた伝説のピアニストであるカディマールは、自らの指を傷つけぬよう砂鉄を日々服用し続け遂には鉄の皮膚を手に入れたといいます。グリエルモさんもおそらく、最高の歌声を維持するために砂鉄をお飲みになっているのでは?」
「い、いや、小生これは生まれつきである」
「なるほど、グリエルモさんは一流の音楽家になるべくして生まれたのでしょう。良い音楽家というものは、無闇に怪我や病気をしないもの。いつ如何なる時でも人々を感動させる義務がありますからね。それがグリエルモさんほどになれば、ナイフを跳ね除けるくらい造作もないのでしょうな」
 普段あまり褒められていないだけに、ヴィレオンのわざとらしい賛辞を疑えなかったグリエルモは、あっさり怒りを収め尚も続く賛辞に気を良くする。何を褒められているのかもよくは理解していなかったが、グリエルモにとっては大体褒められているのだと分かればそれで良かった。
「伝承によれば、竜はあらゆる刃物を寄せ付けぬ鋼鉄の鱗を持つといいます。もし竜である事を証明しろと言われたならば、このようにして刃物が利かない事を見せてやればいいのです。そしてすかさず一曲も披露すれば、刺々しい空気も一気に和むというもの。これが出来るのは銀髪で刃物を物ともしない一流の音楽家だけ、となればグリエルモさんをおいて他にはおりません。違いますか?」
「まったくもって正論である。よし、良く分かった。君は高いマンドリンをくれた良い人だから、小生も協力してやろうではないか。小生暴力は好まぬが、困っている民草には無償で手を差し伸べるのだ」
「ありがとうございます。これできっと、互いに幸福となりましょう」
 がっちりと堅い握手を交わす二人。その傍らには、睡眠薬によって深い眠りに落ちるソフィアの姿があった。
 何かしら危険を察知しているのか、しきりにテーブルを叩き唸り声を発している。