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 夕方を目前にしたその時刻。ラヴァブルクは屋敷の裏庭の一角で一人佇んでいた。
 表情には周囲に決して見せる事のない深い苦悩の色を滲ませている。自らの度量を示す意味もあり、後継者が決まるまでは多少の出来事にも動じず余裕のある振る舞いを心がけていたのだが。もはやその緊張は途切れ、あるのは途方も無い焦りと苛立ちだけである。その情念は表情にも如実に現れ、人払いはしているものの誰もが近づく事を躊躇ってしまうほどの迫力に満ちている。
 状況が一変した。それも、自分にとって最も焦点にされて欲しくなかった、銀竜候補を際立たせる形にである。こちらの圧力に対してヴィレオンが判断を誤る事態はを想定していない訳ではなかった。だがそれはただ血迷うだけで、自分がそれを治め株を上げるぐらいにしか考えていなかった。それがまさか、開き直りとも違う、態度を硬化させた徹底抗戦の構えを見せて来るとは。
 元々、この後継者の条件に本物の銀竜がある以上、本物を連れてきた時点でヴィレオンの勝利はほぼ決定的なのである。そこを如何に突き崩すかが分かれ目だったのだが、ヴィレオンが自らの強みに気づいた以上は正攻法での勝ち目はない。
 やはり、下手な脅しに終わらせず、実行に移すべきか。だが一度強硬的になったヴィレオンは、最悪でも刺し違えてくる可能性がある。親族には僅かでも疑われてはいけない。疑念を持たれてしまえば、たとえ後継者となったとしても当主の座が軽薄なものになってしまうのだ。
 そう悩んでいたその時だった。突然鼻をくすぐったタバコの香りにラヴァブルクは顔を上げ振り返る。そこにはいつの間にか現れた一人の青年が立っていた。
「お前か……」
「本国以来だな」
 その者は屋敷内で一度も見かけなかったはずの顔だったが、ラヴァブルクとはそれ以前からの既知の様子だった。知り合いならば正門から訪ねて来れば歓迎するのが普通だが、泥棒のように裏庭から人知れず入り込んで現れた彼の無作法を、ラヴァブルクはいつもの事とばかりに笑みを浮かべている。
 青年は親しげな様子でラヴァブルクの向かいへ腰を下ろす。だがラヴァブルクは久しぶりの再会にも関わらず、その表情は未だに優れずまとう雰囲気も刺々しくて平素のものとは呼べなかった。普段とは違うその様子に青年は首を傾げ、紫煙をゆっくり吐きながら訊ねた。
「どうした? 顔色が良くないな」
「少しばかり疲れている。あまり状況も良くない」
「状況? ああ、例の後継者争いか。お前の親父も無茶な課題を出したものだな、銀竜なんてものを連れて来いとは」
「その最新の情報をリークしてくれたお前の言い草とは思えないな。心意気だけは感謝している」
 軽口を叩いたせいか、幾分か余裕の出てきた様子でラヴァブルクは口元に苦笑いを浮かべる。青年は無言のままその表情を見つめ、最後の紫煙を吐くと新しいタバコをくわえ火を点した。
「それで、状況はどうなったんだ? 本物の銀竜がいるなら、後は何も問題はないだろう」
「いや、本物は末弟のヴィレオンが押さえてしまった。悪いがお前の情報は少々古かったようだ」
「なるほど。それで心意気だけ、か。で、本物を目の当たりにした感想はどうだ?」
「お前の言った通りだった。感覚が人間とずれているのはともかく、あれは人間の成りをした化け物だ」
 選考会の直後、グリエルモが本物の毒を飲んで平然としていたという話はラヴァブルクの耳にも届いている。これで誰もがヴィレオンの銀竜を本物とは疑わなくなった。辛うじて取り繕ってはいるものの、次の当主はヴィレオンでほぼ決定である。しかも、自分達側だったはずの親族からも多数の離反が起こってもおかしくはない。偽の銀竜で当主を狙ったという悪評もついて回る以上、今後ヴォンヴィダル家での立場は急落せざるを得ない。
 あまりに暗い見通しに、ラヴァブルクは深く憂鬱な溜息をついた。だが、そのまま気を滅入らせるかと思いきやラヴァブルクは唐突に顔を上げて青年に訊ねた。
「一つ、聞きたい事がある」
「何だ? 古い情報で面倒をかけた事だしな、埋め合わせはしよう」
「銀竜には連れがいる。おそらくこの大連星に滞在しているだろうが、その居場所を知りたい」
「ああ、それなら既に押さえている。だが今夜は辞めておいた方がいい」
「何故だ?」
「今はそれ以上は明かせない。さすがに俺の首が飛ぶからな。代わりにこれをやろう」
 そう言って青年が差し出したのは、一本の短剣だった。造形も特別変わったものではなく、鞘にも目立った装飾は無い。むしろ貧相な印象さえ抱く短剣である。市場で金物屋を訪ねれば簡単に手に入りそうな代物だ。何かの嫌味なのかとヴィレオンは眉をひそめる。
「実は諜報団では、仕事柄あらゆる情報が入ってくるがそれを別な分野で有効活用しようという動きが近年あってな」
「予算は王室から幾らでも出てくるだろう。活動費のための副業は不要のはずだ。それとも引退に備えてのプール金か?」
「まあそう言うな。この短剣もその有効活用の一環から作られたものでね。極限を目指した剛性と弾性を両立、尚且つ剃刀よりも更に薄く鋭く鍛え上げている」
「回りくどいな。要するにこれは何のためのものだ?」
「思春期向けの小説によくあるものだ。通称『竜殺し』。あらゆる外敵を弾き返す竜の鱗を斬るための刃だ」
 不死身の竜を殺す刃など、想像上のものでしかない。そう思う反面、青年がこの世界のありとあらゆる裏側に精通している事実も知っているラヴァブルクは、あまりに荒唐無稽なその言葉を一笑に付す事が出来なかった。竜には人間の道具は一切通用しない。しかしそれは実際に確かめた訳ではなく、身近なものを幾つか試した上での浅い結論である。世界のありとあらゆる事を知っている青年ならば、あるいはそんなものを作り出していてもおかしくはないかもしれない。ラヴァブルクはほんの少しだけ青年の言葉を信用してみた。
「で、それを一体どう使えというのだ」
「いよいよという時に、これで竜を殺せばいい。事故で片付く状況など幾らでも用意出来るだろ? その上で、本物の銀竜を偽物にしてしまうんだ」
「竜を、殺す?」
「そうだ。竜に刃物は効かないのだろう? なら、刃物で死ねば偽者さ」