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 エミリアルの外見から想像も付かない叫び声に、ソフィアは思わずその場に頭を抱えてうずくまった。同時に金属同士がぶつかる耳障りな音が聞こえ、背筋に怖気を走らせる。
 刃物か何かを持った人間が襲撃してきた。そう判断したソフィアはうずくまったまま部屋を見渡し逃げ場を探す。しかし場所が部屋の中央と悪く、窓へも距離がありドアの方には襲撃者がいる。今の姿勢から飛び出すにはどちらも遠過ぎる。
 頼りとなるのは武器を持ったエミリアルである。戦況はどうかと恐る恐る頭上を見ると、エミリアルは厳しい表情で短刀を構えている。そこへ刃を重ね対峙するのは、一人の黒尽くめの格好をした人物。見るからに襲撃者らしい格好をしているが、どことなく鍛え上げられた雰囲気がある。
 二人の実力差はさておき、物騒なのはこの一人だけではない。新手が現れる前にと、武器になりそうな手頃なものを物色するものの、予め危険なものはエミリアルが片づけていたのか何一つ使えそうな物は無い。
「ねえ、そいつ任せていい? その間に逃げるから」
「私から離れてはなりません! まだ伏兵が!」
「じゃ、後はよろしく」
 エミリアルの制止も聞かず、ソフィアは素早く飛び出しながら立ち上がると、その勢いのまま部屋の外へ向かって一目散に駆けた。ドアは内カギがかかっていたが、それもほとんど立ち止まりもせずに外してしまい、ドアを半ば蹴破るように出ていく。ある種の技巧すら感じさせる鮮やかな手法で、瞬きするほどの僅かな間にいなくなってしまった。
 迷い無く逃げ去るソフィアに、自らの保身以外の考えはなかった。本当に報酬が得られるかも分からないのに、こう命を狙われてはとてもついていく気にはなれなかった。それに、グリエルモなら匂いだけでも追ってくるから、このままはぐれる心配はない。
 しかし、
「うわっ!?」
 飛び出してすぐの廊下の向こう側に、またしても見慣れぬ男が一人立ちはだかっていた。髪は全体的に白く同じ色の髭を口元にたっぷりと蓄え、肌の光沢や節々の皺からも、壮年というよりは老年と呼ぶ方がふさわしい年齢である事が窺えた。しかし、その老人の頭は天井の照明へ著しく接するほど高い位置に、肩幅は廊下の半分を越えるほどもある、にわかには信じ難いほどの人並み外れた巨体の持ち主だった。身なりもきらびやかさとは無縁ではあるが、布地や刺繍は明らかに庶民が簡単に手に入るような代物ではない。
「噂通り元気の良いお嬢さんだが、お転婆すぎるのもいかんぞ?」
 本性を現したグリエルモにすら匹敵する高処から見下ろす老人は、体格相応に強烈な威圧感を放っていた。口調こそおどけてはいるものの、先ほどの襲撃者より遙かに手練れの様子。まるで生まれたばかりの子犬を眺めるかのように見下ろされているとソフィアは思った。
「ちょっと、何よあんた!」
「あまり騒ぎなさんな。それより部屋へ戻ってお茶でも飲もうかね」
「嫌よ。死にそうにない老人の愛人はやらない主義なの」
 そう言ってソフィアは唐突に体を沈めると、老人の足下へ向かって飛び出した。老人の体格ならば足下が良く見えていないと踏んだ上での奇襲である。
 ソフィアは勢いをつけ老人の足の間を一気に滑り抜けた。その勢いを殺さぬまま素早く立ち上がると一目散に駆けていく。
 はずだった。
「ぐぇっ」
 まさに疾走しようとしたその瞬間、ソフィアの襟が後ろから掴まれ首と両足だけが一瞬前方へ投げ出される。
「良い動きをしているな。思い切りも良い。その歳で随分場数を踏んでいるな?」
 老人は愉快愉快と笑いながらソフィアを引きずり部屋へと向かっていく。
「ちょっと離してよ! 私にこんな事したらタダじゃ済まないわよ!」
「だが、銀竜はここにいないのだろう?」
「な、何でそれを……」
「歳を取ると耳は良くなるものさ」
 老人はそのままソフィアが飛び出してきたばかりの部屋へ引き摺って入っていった。
「ほう、もう終わったのか」
 そう感嘆の声を上げた先では、エミリアルが先ほどの襲撃者を後ろ手に床へ組み伏せていた。あっという間の出来事だったのか、エミリアルは息一つ乱さず空いた手で短剣を油断無く構えている。
「お守りばかりで退屈していると思ったが、まだ腕の方は鈍っていないようだ。結構」
 いきなり現れて笑い出す筋骨逞しい老人に、エミリアルは驚きに目を見開き声を上げる。しかしそれは、ソフィアとは違った声だった。
「な、何故貴方様がこちらに!?」
 途端に泡を食うように慌て出したエミリアルは、短剣を仕舞うのも忘れて跳び退り恭しく老人の前へ肩膝を付く。
「良い、楽にせよ。それから、こちらは逃がさぬようにな」
 そう言って前へ引っ張り出されたソフィアはようやく老人から解放される。初対面でこの扱いにソフィアは臑の一つも蹴り上げてやろうかと思ったものの、自分の体周りもありそうな逞しい足を前に、やはり思い留まる。
「ちょっと、エミリアル。誰よこの感じ悪いジジイ」
 直接ぶつけられないストレスを言葉に乗せ、刺々しい口調で畏まっているエミリアルを問いただす。すると、エミリアルは急に顔を青ざめさせるや否や、慌てて尊大に構えるソフィアを自分の元へ引っ張って顔を下ろさせた。
「く、口を慎んで下さい! この方はヴォンヴィダル家の現当主であらせます、ヴォンヴィダル公です!」
「ふうん。でも、貴族とか興味ないし。財産以外」
「そ、そういう事は思っても口にしないで下さい!」
 普段はおとなしいエミリアルが紅潮させたり青ざめさせたりと目まぐるしく顔色を変える様子に、ソフィアは面倒臭そうな表情を浮かべ溜息をついた。ヴォンヴィダル公と言えばこの騒動の発端となる人物であり、言いたい事は山とあったのだが、言えばエミリアルにがなり立てられるので、ひとまず口を塞ぐだけは従った。
「しかし到着は明日の予定では……」
「だったが、ちょっとした野暮用が出来てね。それでお前達には、今から行動をわしと共にして貰う」
「ですが、私はヴィレオン様のお許し無く勝手な行動は出来ません。幾ら貴方様の御命令でも、聞き入れる訳には参りません」
「うむ、そうかそうか。そうだな、あくまで仕える者の命令を聞いてこその主従関係だ。しかしあのヴィレオンがこのような硬い女を選ぶとはな。末子で甘やかし過ぎ、ろくに家業も手伝わずふらふらしていたが。一応、人を見る目ぐらいはあるようだ」
 そう懐かしむような表情で頷いているものの間もなく、ヴォンヴィダル公はおもむろに右手の指を鳴らした。
「えっ?」
 直後、どこからともなく最初の襲撃者と同じ黒尽くめの男達が大挙し、瞬く間に足の踏み場も無いほど固まって部屋を物理的に占領してしまった。息苦しさすら覚える人の壁に囲まれ、ソフィアは声に出して嘔吐の擬音をあてつけがましく吐く。
「お前にも面子はあるだろうからな。言う事を聞かざるを得ない状況にしてやろう」
「で、ですが、何故このような横暴な振る舞いをなされますか!? 僭越ながら私には理解が出来ません!」
「どうしてもお前達は人質に取っておきたくてな。ああ、勘違いするでないぞ。おとなしくしておれば、客人として丁重に扱うつもりだ。この後もわし専属のシェフに用意させた晩餐会に招待いたそう」
「人質など、ヴォンヴィダル公ともあろう方がそのような下賎な!」
「戦場ではよくある事だ。女のお前には縁の無い世界だがな」
 エミリアルが真っ青な顔で混乱しながら説明を求めるものの、ヴォンヴィダル公とは猛獣のように喉を鳴らして笑うだけでまともに取り合おうとしない。その内この状況が自分の手に負えないものである事を受け入れたエミリアルは、急に語気を弱めがっくりと肩を落とした。そんな様子を眺めていたソフィアは、話が終わったのならばとばかりに自ら代わって入る。
「ねえ、おじいちゃん。何のつもりかは知らないけど、私なんて人質にしても意味ないよ? あの馬鹿は駆け引きなんて知らないんだから。何か言う前にぶちのめされて終わりよ。お金に困ってる訳でもないなら、あまりお勧めしないんだけど」
「銀竜の性格ぐらい知っておるよ。そう、問答無用で踏み潰してくるぐらいの気概が無くてはな。わざわざこのような俗世の辺境まで来た甲斐が無い」
 そう言って尚も不敵に笑うヴォンヴィダル公。ソフィアにはまるで何を考えているのかが理解出来なかった。銀竜の事を一般人よりも正確に把握しているのは、彼が政府関係者であるからなのは想像に難くない。しかし、その上での行動が不明瞭だ。銀竜が常識を外れた存在と知っているのなら、それを敢えて逆撫でしようとする目的が分からない。
「ねえねえ、おじいちゃんは何がしたいのよ。うちの銀竜と会ってどうする気? サインなら頼んであげるわよ。二割引で」
「多くは語らぬのが将たる武人だ。故にここは黙って御足労願えるかね。人質料として十分な日当も用意するから」
「親からは知らない人についていくなって教わったけど、この状況じゃ仕方ないわね。うん、額次第でおとなしくするわ」
「物分りが良くて結構。エミリアル、何もかも噂通りだな。お前は嫌っていたようだが、たまには諜報団も役に立つものだ」
 満足そうに頷き、そしてまたしても大声で高らかに笑うヴォンヴィダル公。声をかけられたエミリアルは未だ立ち直ってはいない様子で、ヴォンヴィダル公には曖昧に微笑んで見せるだけだった。
「ねえ、さっきから噂噂って言ってるけど、私ってどういう風に言われてるの? 美人で可憐な歌姫?」
「金のためなら竜も殴る守銭奴の鑑、とだけ」
 そしてエミリアルは、そんなことはどうでも良いと言いたげに深く溜息をついた。