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 銀竜の登場により甲板はさながら地獄絵図と化した。
 手当たり次第、甲板にあるものを掴んでは引きちぎり投げ飛ばす銀竜は、咆哮をあげながら周囲を次々と瓦礫の山へ変えていく。かつては海上戦で勇姿を見せたであろう戦艦も、見る間に往年の姿から遠ざかっていく。
「くっ、怯むな!」
 しかし、既に兵のほとんどは甲冑を捨て海へ飛び込んでおり、残った者も戦意を喪失し逃げまどっている。そもそも、銀竜の存在自体を信じてはおらずヴォンヴィダル公の道楽に付き合う程度で同行した彼らだから、いきなり命をかけて戦えるものではない。
「あーあ、だから言ったじゃない。どうする? やめとく?」
「軍人に後退は無いわ!」
 とにかく大声を振り絞り自らを奮い立たせたヴォンヴィダル公は、兜を被り戦斧を振り上げ勇ましく銀竜へ突撃していった。
「破れかぶれかしら。さて、どれだけもつか見物ね」
 そしてソフィアは小さくあくびをしながら、未だ被害の無い先端の方へ歩いていった。
「エミリアル、あんたもこっち来た方がいいよ? 危ないから」
 そう声をかけたエミリアルは、目を大きく見開いた驚愕の表情で立ち尽くしていた。おそらくエミリアルもグリエルモの本当の姿がここまで激しいものとは思ってもいなかったのだろう、目の前の現実の認識にひどく戸惑っているのが窺えた。
「……ヴィレオン様!?」
 やがて我に返ったエミリアルは、思い出したかのように大声を上げ周囲を見回す。それからおもむろに後ろ襟へ右手を伸ばすと、そこから金具が外れるような音がするや否や一振りの細身の剣が飛び出した。
「ヴィレオン様、ただいまエミリアルがお助けいたします!」
 そのままエミリアルは剣を構え、颯爽と混乱の渦中へと飛び込んでいった。
「まだ隠し持ってたのか……」
 そうエミリアルに呆れるソフィアは、今度こそ縁へ座り込んで海を眺める傍観者となった。
 銀竜とヴォンヴィダル公の戦いは驚くほどヴォンヴィダル公が善戦していた。
「『オマエ、豚ノエサニシテ、食ウ!』」
「しゃらくさいわ、この化け物が!」
 怒り狂う銀竜はヴォンヴィダル公の姿を最優先に標的とするものの、ただ手足尾を振り回し叫ぶだけしか能のない銀竜は、歴戦の経験から熟練した立ち回りを繰り広げるヴォンヴィダル公を捉えられずにいた。銀竜の行動パターンは怒りのあまり実に単調で、ヴォンヴィダル公にとってはかわすことなど造作もない事だった。しかし、隙を狙っては全力で戦斧を銀竜へ叩きつけるのだが、その都度硬い鱗に跳ね返され両腕に稲妻のような衝撃が走った。
「『猿ガ! 猿風情ガ! 我ガ怒リ……コノ猿ガ!』」
 銀竜は留まることを知らず、闇雲ながらも未だ激情を燃やしたまま暴れ続ける。一方、善戦はするものの未だ有効打を得られないヴォンヴィダル公は、徐々に動きからかげりが見え始めていた。無尽蔵かと思われる銀竜の体力に対し、第一線を退いてから久しい老兵である。むしろ、ここまで立ち回り続けたヴォンヴィダル公が驚異的と言えた。
 戦斧も銀竜の硬い鱗に何度も叩きつけられて、いつまでも耐えきれるものではない。とうに刃はこぼれ落ち、柄との要の部分を中心に亀裂が目立ち始めている。もはや自壊するのも時間の問題だ。
「やはり、戦略的撤退はあるかのう……!」
 僅かに表情から弱気の色を窺えさせるヴォンヴィダル公。だが銀竜は一層激しさを増すばかりで、ついには甲板を片っ端から引き剥がし投げつけ始めた。
「聞けい、銀竜! いざ、我と正々堂々勝負しろ! さもなくば貴様は臆病者と末代まで笑いものぞ!」
「『猿ノ家系、ココデ終ワリ。笑イモノハ竜ニ挑ンダ猿』」
「おのれ、この卑怯者め! どうやっても勝負せぬか! ぐわっ!?」
 激昂するものの、ヴォンヴィダル公は投げつけられた甲板の破片の直撃を受けその場に悶絶する。すかさず銀竜は踏みつけで止めを差しにかかるが、すんでのところで転がってかわし一旦物陰へ身を隠す。
 ヴォンヴィダル公の姿を見失うと、銀竜はすかさず周囲の破壊へ移った。途方も無い腕力で無差別に暴れ回る銀竜に甲板はあるだけ剥がされ尽くし、砲身も砲台ごと残らず海の底へ沈んでいる。司令塔は辛うじて残っているものの根元から傾き始め、戦艦そのもののバランスも崩れ始めている。このままでは司令塔はおろか戦艦そのものが転覆してしまうのも時間の問題だった。
「どうする? そろそろマズイと思うんだけど」
 息を殺しながら体力の回復を待つヴォンヴィダル公、その元へソフィアが唐突に顔を現した。
「ま、まだまだいけるわい! 武人一徹半世紀をなめるなよ!」
「随分余裕無くなったわね。まあ、名誉ある討ち死にも人の自由だから構わないけどさ、やっぱ貰うもの貰ってからじゃないとね、死ぬのは」
「だから、今に仕留めて払ってやるわい!」
「どうやって仕留めるの? 部下はいないようだし、武器もボロボロじゃない」
「武器が無くとも、まだ自分の肉体がある! 今は体力の回復を図っているだけだ!」
「その前にこの船が沈むと思わない?」
 そう言った直後、大きな軋みの音を立てて足元が僅かに右へ傾いた。人間多少の斜面なら体が勝手に合わせるため、その傾きを認識する事は少ない。それをはっきりと感じたという事は、水平から相当大きく傾いたということになる。
「……やっぱり、今回はやめておこうかのう」
「それがいいわ。で、キャンセル料はまだ戴いてない御給金の十五割増しだけど、どうしましょう?」
「十五……ッ! まあ、別にいいわい。どうせあの世に金は持っていけぬ」
「はい、毎度ありがとうございます」
 ソフィアはここに来て最高の笑みを浮かべた。