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 生まれて初めて乗る豪華客船の一等客室。ヴォンヴィダル家の計らいによって用意されたものである。料金は全て負担してくれるため、ルームサービスは勿論のこと、船内にある施設の利用費や買い物までが無料である。にもかかわらず、ソフィアは重苦しい表情のまま部屋にこもりがちで、それらを十分に利用する事は無かった。グリエルモはヴィレオンから約束通り高価なマンドリンを受け取ってはいたものの、ソフィアがこういった調子でははしゃぐ気になれないのか、ほとんど触りもせず船内を回ってきたかと思えば部屋に戻ってソフィアの様子を窺うのを繰り返していた。
「ソフィー、今帰ったよ!」
 唐突に部屋へ飛び込んできたグリエルモ。今日に入って四回目の帰宅だったが、ソフィアは表情も変えず一瞥すらしなかった。
 ソフィアは窓辺に半身でもたれかかりながら海を眺めていた。しかしその焦点の合わない目は波の動きをさほども追っておらず、ただ元からある位置に居座っているだけにしか過ぎない状態だった。明らかに普段とは様子の違うソフィア。グリエルモは空気こそまるで読めなかったものの、さすがにソフィアの異変には気づいていた。しかしこういった場合にどう振舞えばいいのかまでは分からず、とにかく元気付けようと明るく努める事しか思い浮かばなかった。
「ねえねえ、ソフィー。上の階にね、いい雰囲気のカフェがあったんだよ。気分転換に行ってみない?」
「そう。じゃあ後でね」
 素っ気無い返答は、まるでグリエルモを突き放すかのような冷たささえ感じられた。鈍感なグリエルモもソフィアの事に関しては敏感であるため、その一言には落胆したように顔をうつむける。自分の口調が理不尽に冷たくなっている事にソフィアは気づいていたが、それでも自分を抑えられなかった。それほど今のソフィアは気持ちに落ち着きや余裕が無かったのだ。
 大連星でトアラから持ちかけられた取引の話は、ソフィアにとって予想外の内容だった。窃盗を初めとする罪で逮捕された父親などとっくに処刑されたものだと思っていたのだが、その父親が実は未だ刑が執行されておらず存命だということ。そしてトアラは、その父親に対して特赦を見返りとして提案してきた。無論、たった一人の家族なのだから助けられるならば助けたいと考えるのが当然である。ただ、そう簡単に結論付ける訳にもいかなかった。取引に応じたところで約束を守るのか、それだけの権限がそもそも一諜報員に与えられているのかということ。父親が生きているという情報は出任せではないかという不安。そして何よりも、取引相手が何よりも嫌いな政府関係筋であること。
 少しでも面倒事の匂いを感じたなら、一も二も無く断るのが常である。しかしとても無碍には出来ない報酬があっては一笑に付す事も出来ない。まんまと乗せられ都合良く使われるのか、一世一代のチャンスをむざむざと棒に振るのか、その葛藤ばかりが延々と続いている。いつもなら利害という分かりやすい基準で即決していただけに、ソフィアは悩みに悩み抜き苦悩をひたすら重ね続けた。
「ね、ねえ、ソフィー。もしかして怒っているのかい? 何か悪い事したかな?」
「してないわ。いつも通りよ」
「それじゃ……そうだ、あの猿貴族の報酬が少なかったんだね?」
「そんな事ないわよ。思ったより色つけてくれたし、他に優待券とかくれたもの。十分過ぎるほどだわ」
「そ、そう……」
 自分では考えが及ばないのだと、グリエルモはがっくりとうなだれる。ソフィアにはグリエルモを責める意図は無かったが、普段から繰り返し日常の一部になっているせいか口調がどうしてもきつくなりがちである。
 少しは相手をしてやらないと、このままぐずりだして面倒なことになってくる。そう思い出した頃、ソフィアはこのまま考え込んでも無意味だと悟りグリエルモへ話しかけた。
「ねえ、グリ。グリの家族は元気?」
「え、うちの家族のことかい? それはもう元気だよ。多少血でも抜いた方が良いくらいさ。まあ、小生の音楽をまるで理解出来ないという意味では病気だがね」
 ソフィアに話を振られた事で、たちまち元気を取り戻し目を輝かせながらまくし立てるグリエルモ。そのあまりの勢いに微苦笑しながらソフィアは、両親は割とまともな感覚をしているのか、と思う。
「私のお父さんのこと、まだ覚えてる? バジルっていうの」
「もちろんだよ。ソフィーの父親だからね。言動も凡俗とは比べものにならなかったよ。まあ最後に自分から死にたいって言ったのは……あ、いや、うん」
「いいわよ、その通りなんだから。馬鹿正直の典型だし」
 珍しく自分の言葉に配慮したグリエルモに驚くソフィア。やはりグリエルモは読んだり感じたりする事が出来ないのではなく、元々やろうとする習慣がないだけなのだと改めて思う。
「で、その私のお父さんね、実は生きてるんだって。本当はとっくに死刑になったと思ってたんだけど、まだ執行されてないらしくて」
「え、本当かい? よし、それなら早速行こう。なあに、小生ならうまく助け出すよ」
 そう言って華奢で生白い腕を構えて息巻く。想像するまでも無いが、グリエルモの考えるうまい手段とは人間の価値観で一番避けなければならない手段である。
「それじゃ意味ないでしょ。そういう事じゃないの」
「どういうことなんだい?」
「私達がトアラって奴の仕事を手伝う代わりに、お父さんを特別に釈放してくれるってこと。脱獄させたりなんかしたら、二度と人前には出られなくなるわ。それに、お父さんだって納得するはずもないし。ちょっと考えれば分かるはずよ」
「ふむ、人間のルールは良く分からないけど、それの方が後腐れ無いのならそうすれば良いんじゃないかな?」
 少しは考えろと言いたかったが、グリエルモにとってそれはあまりに高度な要求である。ソフィアはそこには触れず提起を続ける。
「もし嘘だったらどうするの? 本当に生きてるか分からないし、約束守るとも限らないわ。ただトアラが一方的に信じろって言ってるだけなのよ?」
「駄目だったり嘘だったなら、その時はその時だよ。小生がぶん殴ってあげよう。ソフィーのためなら何だってするよ」
 それじゃ何一つ解決になってないじゃない。
 そう溜息をつきかけた直後、グリエルモが珍しく更に言葉を続けて突っ込んできた。
「良く事情は分からないけれど、家族のためなら何だってするべきだと思うよ。それにソフィーの父親は良い人だったからね、猿の理屈で死なせるのはいけないよ。僅かでもチャンスがあるなら、とりあえず賭けてみようよ。やればそれで確率はゼロじゃなくなるんだし」
 グリエルモにしては至極真っ当で前向きな意見である。まさかグリエルモからそれだけの言葉が聞けると思っていなかったソフィアは、思わず感慨の溜息を漏らしてしまった。
「そうね、とりあえず乗ってみましょうか。例によって肉体労働はグリの役目だから、ちゃんとしなさいよ?」
「お任せあれ。ソフィーに物を持たせるような事は決してしないよ」
「じゃあ、明日連絡船に乗り換えるわよ。あー、なんかモヤモヤがスッキリしたらお腹空いて来ちゃった。御飯食べに行くわよ」
「やっとソフィーらしくなったね」
「普段どういう目で見てるのよ」