BACK

 アヴィルドとは昼に中央広場で落ち合う約束をし喫茶店を出た所で別れた。しかし竜の事だから、約束の履行はあまり期待しない方がいいだろう。そもそもグリエルモには個人的な因縁もあるのだから、尚更人の手を借りる事は嫌がるはず。音楽の事を褒め倒して機嫌を良くして取り付けた約束であるものの、正直今でも覚えているかどうか。
 トアラは喫茶店を出た所で忽然と行方をくらませた。おそらくアヴィルドの後を追って行ったのだろう。それにしても、これまでの諜報団の成果を比べれば、この小一時間で何十年分もの働きをした事になる。それだけでもはや特赦を貰うに十分である。トアラにはその事を交渉した方が良さそうである。
 宿に戻ると、フロントと隣接した食堂のスペースから頭痛を催す酷い雑音が聞こえてきた。周囲には数人の人だかりも出来ていて、いずれも怪訝そうな面持ちで音の主を見ている。
 戻ってきたソフィアを見つけるなり店主は、すぐさま血相を変えて来た。
「お客さん、ちょっとあれ何とかして下さいよ。このままじゃ商売上がったりだ」
 苛立ちも露わにきつい口調で浴びせかける店主。まあそれが常人の反応だろうと、ソフィアは微笑を浮かべ軽く小首を傾げてみせる。
 このまま放っておくのも何かと不都合である。
 ソフィアは早速音の主のいる食堂の方へ入っていった。食堂では暖炉の側の椅子にグリエルモが足を組んで座っていた。ヴィレオンから貰ったばかりのマンドリンを小気味良く掻き鳴らし、恍惚の表情でしきりに人語とも聞こえない歌声を垂れ流している。
 背後までソフィアが近づいても気づかないほどグリエルモは歌を歌う事に夢中になっている。そこをソフィアは、おもむろに傍にあった灰皿を手に取ると、そのまま右から左へ振り抜くように力強くグリエルモの頭を打った。
 突然の暴挙に衆目から悲鳴が上がる。何もそこまでする必要は無いと、慌ててソフィアを止めようと飛び出す一同。しかしグリエルモは不思議そうな表情を浮かべただけで、平然とした装いだった。それに驚いた一同が唖然としてその場に立ち尽くす中、ソフィアは状況を把握できずに困惑しているグリエルモを怒鳴りつけた。
「プロが声を安売りするなって何度言ったら分かるの!?」
「ご、ごめんなさい。ソフィもいないし退屈だったから、それにこのマンドリンもね、うんとても良い物なんだよ。まだ全然弾いてないからね、この機会にと思って」
「小うるさい私がいない内にって?」
「うん、そう……いや、そんな事はないよ? 『あー君は僕の気温計ー、毎日眺めて一喜一憂するー』」
「まだお仕置きが足りないのかしら」
 普通の人間なら死ぬ。周囲の人々はそう思っていた。しかしグリエルモは血の一滴も流していない。言動がおかしいのは殴られたショックだとしても、平然と構えていられるはずはない。どこか頭の大事な部分を打たれて、生命の危機のようなものが感じなくなっているのだろうか。そう不安げに成り行きを見つめる。
「で、どこに行ってたの? 黙って出てったりしてさ」
「精霊が呼んでいたので話をしてきたんだよ。風の精霊」
「風の精霊?」
「海の精霊から言伝があるそうなんだ。何でも小生の身に危険が迫ってるらしいよ? ぷー、笑っちゃうよね」
 ああやはり駄目なんだな、と周囲から溜息がぽつぽつと漏れる。しかしソフィアだけはグリエルモの言葉に一人真剣な表情を浮かべる。
 身の危険とは、まさかアヴィルドの事だろうか。タイミングもぴったりで、グリエルモのような者が身の危険を及ぼすなど同族ぐらいしか思い当たらない。
「少しは危機感持って。あと、精霊に感謝なさい」
「小生は万物に日々感謝しているよ」
 グリエルモは、同族には嫌われているようでも精霊には好かれているようである。本人に自覚は無いため助け甲斐は無いだろうが、味方は一人でも多くいるに越したことはない。
「ねえ、戻ってくる時にこの近くで歌とかギターとか聞こえて来なかった?」
「ああ、そういえばあったよ。とても悲しく嫌な気分にさせる音色だったので遠回りしたよ」
 それで正解である。事前の打ち合わせもなくアヴィルドに会わせる訳にはいかない。ばったり出会したはずみで、双方共に正体を晒した大騒動が起こる可能性もある。そういう状況が簡単に想像が出来るのが竜だ。
 ひとまず状況を説明しなくては。それにはこの場所では少々目立ち過ぎる。ソフィアはグリエルモの襟首を掴んで引っ張り上げ無理矢理立たせると自分達の部屋へ向かう。
 去り際、ソフィアは怪訝な様子の周囲に釈明する。
「この人、すっごい石頭なんですよ。だから、あれぐらいやらないと効かないんです」