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 昼になりアヴィルドとの約束の時間が近づいて来た頃、ソフィアはグリエルモと共に宿を後にした。
 グリエルモは相変わらず何も考えていない様子で、能天気に鼻歌を口ずさんでいる。一方のソフィアは緊張感に満ちた深刻の表情で言葉少なく、時折歩きながら考え込んでいた。
 アヴィルドがグリエルモに好意的ではない事は承知している。その上、グリエルモを亡き者にする命令も受けているのだ。きちんと説得し謝意を示したとしても聞き入れてくれる可能性は極めて低い。それよりも更に低いのは、グリエルモが素直に謝罪する事だ。グリエルモに謝罪を強要する事は簡単だが、そんな心無い謝罪を受けたところでアヴィルドは余計不快になるだけで逆効果である。
 グリエルモが普段人間を馬鹿にするのは自分が竜だからではなく、単純に相手が自分より劣っていると考えているからだ。グリエルモの思考は原始的で、強ければ弱者に何をしても許されると本気で信じている。だからグリエルモにとって自分より弱い者に謝罪させられるなど、とても理解出来ない行動なのだ。
 このように話のこじれる要素の多い状況、本来ならアヴィルドはグリエルモに会わせない事が最良の選択である。しかし、アヴィルドの問題の解決そのものが父親の釈放の条件になっている以上は避けては通れない。実質的な解決はトアラの仕事として、自分の役目は出来る限りグリエルモとアヴィルドの間に摩擦を生じさせない事だ。
 約束の中央広場へ到着すると、意外にもそこにはアヴィルドの姿があった。今朝とは違ってギターは弾いておらず、ただ一般人と同じように待ち合わせの格好を取っている。ただ、やはり人間とは違って感覚が鋭いらしく、こちらが見つけた時は既に険しい表情でじっと睨み付けていた。
 早くも臨戦態勢だな、とソフィアは眉をひそめる。人間に紛れて不意打ちをかけるとアヴィルドは言っていたが、幾らなんでもそこまで殺気立っていてはさすがに感付かれてしまう。だが、グリエルモは相変わらずのんきに鼻歌を歌っていてアヴィルドの殺気にはまるで気づいていない。人間よりも遥かに鈍感なのではないかとソフィアは呆れた。
 アヴィルドはしばしこちらの様子を窺った後、遂に真っ向から向かって歩いて来た。心の準備にたっぷり時間を費やしたためか、いかにも腹は括ったと言わんばかりの表情である。
「やあ、久しぶりですね」
 そして、まずは明るい口調で軽い挨拶から入ってきた。しかし表情は明らかに無理がある笑みである。殺気を押し殺そうと努めてはいるものの、明らかに押し殺しきれていない。
「今朝方会ったばかりじゃない」
「ん? 失礼ですが、君はどこの猿でした? どこかで餌付けでも?」
 そういえば、竜は人間の顔など全て同じに見えるのだった。
 アヴィルドの悪気だけは無い腹の立つ態度に奥歯を軋ませるが、その感情は表に出さぬよう努める。
「なんだね、この色素の汚い生き物は。ソフィー、病気になるから下がっていたまえ。小生が駆除しよう。なあに、検疫は暴力に入らぬよ」
「相変わらずですね、グリエルモ」
「ほう、小生の名を知っているのかね。まあ、最近は少々派手に宣伝活動もしていたからね。ようやく音楽界も新星の登場を認めざるを得なくなったか」
「いえ、そうではありませんよ。僕です、僕」
「有名人は辛いものだね。病菌にすら身内を名乗って近づかれてしまう。『それはー、まるで波間を漂う馬鹿な羽虫ー、離れれば大した害は無いー』」
「うん、相変わらずだ。本当に……本当ニ、オ前ハ」
 すると、アヴィルドの声が突然しわがれ、めきめきと輪郭の軋む音が聞こえてくる。
 早くも沸点だ。すかさずソフィアがフォローに入る。
「グリ! ほら、あの人よ! 昔のお友達!」
「友達? 小生、こんな汚い色素の友人はおらぬよ。見たまえ、この貧相な顔……うっ!?」
 尚もアヴィルドを刺激するような言葉を口に仕掛けるグリエルモに、ソフィアは無言で足を踏みつけた。痛みなど感じないはずだがソフィアに対する恐怖感からか、グリエルモはすかさず口をつぐむ。
「あ、ああ、そういえばそうだったね。うん、久しぶりだね、黒いの」
「竜の島の友人よ。ちょっと、ど忘れしただけよね?」
「おお、黒い竜の君か! うん、そうだね。ちょっとど忘れしてたよ! いや、懐かしいねえ! まだ笛の方はやっているのかい?」
「笛は一時期だけだよ。どっかの誰かにギターを壊されてね」
「なんと悪い竜もいたものだね。今度小生のお古をあげるから、それで練習すると良いよ」
 ソフィアの言わんとする事は理解したのか、グリエルモは自分なりに気に障るような言葉を避け話を合わせようとするが、明らかに思い出せていないのが見え透いており、むしろ逆効果のような会話になっている。
 アヴィルドからは言葉の節々で骨の軋む音が聞こえてくるが、まだ辛うじて外観は取り繕えている。人間の中で竜の正体をバラしてはいけないという概念は持ち合わせているようだが、こういう激情型の忍耐とは決して過信出来ないから未だ気は抜けない。
 それにしても、こんな時にトアラは一体どこへいったのだろうか。いざという時に使えない諜報員め。
 トアラに全て転嫁してやりたくて仕方ないソフィアは、時折苛立ちながら周囲の人混みに視線を向けトアラを探す。
「ところで、グリエルモ。僕の名は、アヴィルド、なんだけど。これから昼食でもどうかな?」
「うむ、構わないよ。うまい店なら案内してくれ。あ、でもソフィーは奢りじゃないと不機嫌になるんだ」
「グリ、今日は別にいいから。とにかくそういう事は人前で言わないで」
 アヴィルドのあてつけがましい言葉、だがグリエルモは何も感じ取ってはおらず普段通りに相対する。それに合わせなければならない立場もいい加減終わらせたいソフィアは、そろそろ現れてくれと祈るような気持ちで周囲を見るものの、やはりトアラの姿は無い。
 とにかく、店に入るまでさりげなく記憶に残るような行動をしつつ、昼食の時間をひたすら延ばし、トアラが目撃証言を追って辿り着いてくれることを祈るしかない。
「アヴィルドとは言い難い名前だから、とりあえずアヴィでいいよね。面倒だし」
「いいよ、ざっくばらんに行こう。さあ、お店はこっちさ」
 そう言ってアヴィルドが先に立って店への案内を始める。表情は笑顔であるものの、しきりに骨格の軋む音が聞こえてくるアヴィルドの姿はまるで爆薬のような恐ろしさが感じられる。
「……殺ス……心臓ヲ引キ裂キ、頭蓋骨ヲ引ッコ抜キ、尻尾ヲ蝶結ビニシテヤル」
「アヴィ、独り言は気持ち悪いよ? ただでさえ薄暗い色素のせいで根暗に見えるのだから」
「これは失礼」
 そして、相変わらずどういう神経をしているのか理解に苦しいグリエルモが、平然と差し障りのある言葉をぶつける。相手が誰なのか本当に思い出せていないというのに、ああも軽口を叩けるとは。知らない、という事は本当に幸せなのだと、ソフィアは改めて感じた。