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 半ば駆け抜けるように宿を引き払うと、そのままソフィアとグリエルモは町を後にする。向かう先は船を下りた港町、そこから目的地は問わず一番最初に出向する便へ乗り込み逃亡を図るのである。
「グリ、ちょっと後ろ乗っけて」
 町の喧騒が遠ざかると、ソフィアはグリエルモの背後から首へ腕を回しそのまま圧し掛かる。
「ああ、ソフィー。君になら幾らでも下敷きにされたいよ」
「変なこと言ってないでさっさと走る」
 ソフィアを背負ったままグリエルモは港へ向かって駆け始める。人を背負って走るのは街中では目立つ行為だが、街道のような往来では考え難い状況でもないため二人の姿を注目する者はほとんどいなかった。
「もっとスピード出ないの? もたもたしてたら追いつかれちゃうわよ」
「分かったよ、少し力を出そう。『あー、我は吹き荒ぶ春の嵐ー、枯葉を巻き上げー、花粉を撒き散らしー』」
 そう相変わらず調子の外れた歌をひとしきり唄った直後の事だった。突然、頭を上から押さえつけられるような圧迫感に見舞われグリエルモの頭に顔をぶつける。あまりに急激な加速のせいで体が流されてしまったのだ。しかし、問題は加速した方向である。ソフィアの周囲の景色はこれまで見たことも無いほどの高所に変わっていた。
「馬鹿ッ! 何で飛ぶのよ!」
「はっはっは、竜は高貴なる両翼をみだりに広げたりはしないものだよ? これは単なる跳躍、『しかしー、それはまるで未来への飛躍ー』」
「目立ったら意味無いの! この馬鹿!」
 着地するまでの間、ソフィアに何度も叩かれたグリエルモは、今度は前方へ跳ぶことを意識し先を急ぐ。人間では有り得ない高さまでの跳躍を目撃した人々は瞬く間に遥か後方へ遠ざかる。今度はまたしても人間では有り得ない速さで駆けるグリエルモの姿が街道に登場する事になったが、ほとんどの者はただの突風程度にしか見えなかった。
 行きは半日程度かかった道程を、グリエルモは僅か数十分で駆け抜けた。馬すら及ばないその速さにソフィアは力を振り絞ってしがみついていたが、港に到着するなり全身を縛る疲労感と筋肉の凝り固まりには気に留めずすぐさまチケット売り場へと向かう。グリエルモは船に乗ることを除いて、今置かれている状況や目的などほとんど理解していなかったが、再びソフィアの機嫌を損ね頭を嫌と言うほど叩かれる事は避けたく、ひたすら黙ってソフィアの後ろに付き従う。
 既に乗船手続きが始まっているチケットを何とか購入したソフィアは、今度はグリエルモの袖を掴み乗船口を目指し駆け出す。どうにかチケットは購入出来たものの、こういう時に限って乗船口が最も場所が遠い。このまま走って時間ぎりぎり一杯、しかし普段のようにグリエルモが少しでも道草を食えば絶対に間に合わない。ソフィアはほんの僅かでも逸れようとする素振りを見せれば容赦なく蹴り上げると殺気立ち、珍しく雰囲気を読んだグリエルモはひたすらソフィアに続いて走る事に徹する。
 別の船が港から離れていく様が視界の端に入り焦りは募る。しかし、僅かに出港時間より早く最後の曲がり角が見えてくると、その焦りもすぐに消えていく。
 だが、揚々と角を曲がったその直後の事だった。
「止まれ」
 道の真ん中にこちらの行く手を遮るような形で一人の青年が立ちはだかっている。その顔を見たソフィアは反射的に減速をかけ足を止めてしまう。
「何故ここにいる? そんな指示はした覚えは無い」
 その青年は、アヴィルドを尾行すると告げ別れたきりになっていたトアラだった。その顔を確認したソフィアは改めて、気づかなかった振りをして突き飛ばせば良かったと、そんな考えを頭によぎらせる。
「あ、あんたこそどうしてここにいるのよ」
「アヴィルドを尾行していたらここに行き着いただけだ。奴はすぐ近くにいる。これ以上は接近するな」
「ったく、いい気なものね。まだ何も知らないで尾行なんか続けてたの?」
 するとトアラは数歩歩み寄り僅かに声を潜め訊ね返した。
「黒鱗の弟のことか?」
「え? なんだ、知ってたの」
「いや、ただの憶測だ。アヴィルドがこちらの尾行に気づいている事には気づいているが、それが幾ら何でも早過ぎる。それにあの町周辺から集めた情報を統合しても、行動パターンがとても同一人物とは思えない。そうなると結論は自ずと絞られてくる」
 トアラの無感動を絵に描いたような淡々とした態度もそうだが、まるで自分の情報は共有する気の無い態度には我慢がならなかった。
 やはりこいつは信用ならない。きっとこの先も、こちらの安全より情報の秘匿性を優先するだろう。
 特赦は惜しいが、利用されるだけされて見殺しにされるのは沢山である。もうここで手を切った方が良さそうだ。
「で、何故ここにいる?」
「ヴェルバドっていう、アヴィルドに双子の弟がいる事が分かったから知らせようと思ったのよ。アヴィルドがあんたの事を始末したがってたし」
「まあ、今回は不問としよう」
「今回? 次回は無いわよ。私らはもう降りるから、さっさと特赦をよこして。拒否するなら、本当にいよいよ決別ね」
「随分と都合のいい選択だな。受け入れると思うか?」
「なら結構、アヴィルドなりヴェルバドなり好きな方に始末されなさい。グリは一切手出しさせないから。そうよね?」
「『ぼくのーあばたからえくぼまでー全部君のものさー』」
 十分過ぎる報酬を用意したとは言え、ソフィアがここまで反発するのは予想外だったのか、トアラは小首を傾げ珍しく考え込み始める。
 諜報員なら自分の性格は十分把握済みだろう。一度硬化させた態度は滅多な事で変えない。破格のつもりである報酬も放棄されては、少なくとも自分が何らかの譲歩をせざるを得ない。どうしても協力が必要なら可能な限り譲歩を要求出来るし、そうでなければこのままお別れである。どちらにしても自分に有利に働く事に変わりは無い。
 しかし、次に口を開いたトアラはソフィアの思惑とはまるで異なる発言を繰り出した。
「実はな、既に尾行どころではないのだ」
「は? 何言ってるのよ」
「そろそろまずいか……」
 その時だった。
『何処ニ行ッタ、忌々シイ猿メ! 隠レテモ無駄ダゾ!』
 突如響き渡る、鼓膜を劈きそうなほどの勢いを持ったあまりに巨大な叫び声。それは雷や砲弾といった表現すら生温いほど、ただただ規格外の絶叫としか言いようの無い、宗教書の終末思想を思わす異常な出来事だった。そこへ更に追い討ちをかけるかのように、巨大な黒い影が頭上を覆う。するとトアラは咄嗟に二人を物陰へと下がらせた。
「ちょっと、あれってまさかアヴィルドじゃないの!?」
「ああ、そうだ」
「そうだって、何がどうなってるのよ! 尋常じゃないわよ、あれ!」
「奴のギターを拝借したのだ。調査目的でな」
 そう言ってトアラは平然と見覚えのあるギターを取り出して見せる。ソフィアは怒りの熱と凍りついた背筋の冷気とが一緒に頭へ昇る奇妙な錯覚を覚えた。
「馬ッ鹿じゃないの、あんた!」