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 その影は、丁度周囲に立ち並んだ倉庫の群を見下ろすほどの巨躯と、船の帆を幾つも繋げ合わせたような大きな翼を一対、晴れ渡った空に勢い良く躍らせた。
 全身を光沢のある黒の鱗で覆い、しきりに空を掻く両手の指先には宝石のように半透明の鋭く長い爪が光っている。
 黒竜は怒っていた。人間とも獣とも落雷とも取れない、ただひたすら大きな声を上げ周囲に響き渡らせている。安定感のある骨格とは裏腹に、終始ふらつきながら迷走する足取り。何かを掴もうと空を掻き毟る手は手辺り次第に引きちぎっては飛ばし、ふらつく足がとどめとばかりに踏みつける。
 この光景を目の当たりにした人々は、誰もが我が目を疑いその場に立ち尽くす。あまりに非現実的な光景に、この異常な状況を判断する能力を完全に失っていた。
「黒鱗を調査した前任の諜報員達が、消息を絶ったり町が突然消滅したりしたのは、もしかするとこういう事だったのかもしれないな」
 トアラは地獄絵図とも評すべき周囲の惨状など気にも留めず手元のギターを撫でた。
「あんたとこには、想像力を働かせられる諜報員はいないの?」
「いない。諜報員は皆、現実主義だ。自分の目で見て確かめた事だけが全てだ」
「あんたの同僚は心霊詐欺のいいカモね」
 ソフィアはアヴィルドの様子を窺いながら、この場を切り抜ける良い策はないものかと首を捻らせる。最も手軽な方法は勿論形振り構わず逃げ去る事だが、アヴィルドがその後どういった行動に出るかは想像に難くない。別段ここが思い入れのある町でも無くトアラも自分の身内という訳でもないが、知人の取った行為が原因で町が壊され死傷者を出すというのは気分の良い事ではない。
 グリエルモが激情した時も激しいが、アヴィルドもそれに負けず劣らずの様子。元々同じ竜族だからそれも当然だが、アヴィルドの場合はグリエルモと違って周囲が全く見えていないばかりか一つの事だけで思考が埋め尽くされ、まるで駄々をこねる幼児そのものである。これを制止するのに言葉での説得は不可能だろう。
 傍らできょとんとした表情をするグリエルモに視線を向ける。やはり腕ずくでしか止める方法は無く、そうなると相手が出来るのはグリエルモしかいない。だがそれには問題もある。
「ねえ、グリ。あの黒いのうるさいんだけどさ、止めてくれる?」
「おお、ソフィー。君のためなら神をもぶん殴ってみせよう。『僕はー平和よりもー愛に生きるー』」
「それはいいからさ。出来るの? 出来ないの? どっち?」
「はっはっは、小生を侮ってはいけないよ? 竜族で一番の力持ちさ。ただし今は非暴力主義だがね」
「とにかく、止められるのね? だったら早くして」
 するとグリエルモは、任せろと言わんばかりに意気揚々と上着を脱ぎ始める。普段は滅多に無い、ソフィアに頼られることに特別な喜びを感じるグリエルモにとって拒む理由など無く、いつも事あるごとに主張する非暴力主義などどこ吹く風で張り切る。しかし、上半身を晒し全身から骨の軋むような音を鳴らし始めた直後、ソフィアは咄嗟にグリエルモを止めた。
「ちょっと待って。今、何をしようとしてるの?」
「どうしたんだい、ソフィー。あの黒いのを軽く捻ってくるだけだよ」
 更にグリエルモの体が軋み、肩から背中にかけての肉が急激に隆起し始める。すかさずソフィアはグリエルモの額を叩いた。
「なに変身しようとしてるのよ! これ以上騒ぎを大きくしてどうする気!?」
「え……でも、このままじゃ体格差が」
「ホント、使えないわね。融通利かないんだから」
 刺々しいソフィアの一言にグリエルモが沈む。その場にへたり込み膝を抱えると、嗚咽を押し殺しながらはらはらと涙を流し始める。しかしソフィアは一向にそれには構わず、別な手段を画策し始める。
「こちらとしては、銀竜の生態も観察したい所だったんだがな」
「こんな街中で、竜同士の格闘をさせたいの? どれだけ被害が出ると思ってるのよ」
「私は諜報員だ。治安維持の直接的な活動は役割ではない」
「ったく、あんたの使えなさも相当ね」
 そうソフィアに罵られるも、トアラはさほど気にも留めず無表情でそれを受け流す。反論する価値も無いと考えているのだろうか。
 ここは、やはり考え直し何もかも見捨てて自分達だけで逃亡してしまおうか? そんな考えがソフィアの頭を過ぎる。そもそも、自分達の役割はあくまで黒鱗が誰なのかを特定する事である。それ以降は全てトアラの仕事だ。だから本来自分が気に留める必要どころか責任を感じることも無いのだ。それを気に留めずにはいられないのだから、ただただ損な性格としか言いようが無い。
 さて、一体どうすればアヴィルドを止める事が出来るのか。グリエルモを本来の姿に戻し取っ組み合いをさせるのは論外としても、他に有効そうな手段が思い浮かばないのも事実だ。そうなると考え付く手段は一つしかない。
「トアラ、ちょっとそのギター寄越しなさいよ」
「何故だ? これは重要な資料として分析する必要があるのだが」
「あるのだが、じゃないでしょ。あんたのせいでああなったんだから、何とかする責任があるんじゃない。それとも、民間人死なせても関係ないっての?」
「そうだな。諜報員の行為の大半は超法規的に処理される」
「現実主義者って精神論が通用しないから嫌になるわね」
 アヴィルドが怒り狂う原因となっているのは、トアラがアヴィルド愛用のギターを盗んだ事にある。それをただ返しただけで納得するとは思えないが、少なくとも現状のままでアヴィルドが怒りを収めるとは思えない。
 いっそ奪い取ってしまおうか? いや、相手は諜報員、戦闘的な技術もある程度習得していると思って間違いないだろう。下手に手を出して怪我をするのも馬鹿らしい。もうトアラなど見捨ててしまって、グリエルモとだけで逃げてしまおうか。アヴィルドにそれとなくトアラの居場所を知らせれば、ギターが戻って来る上に犯人もどうこう出来て気も晴れるはずだ。どうせ自業自得なのだ、しかも全く無関係な人達を巻き込んで平然としているのだから、心置きなく見捨てる事が出来る。
 ソフィアは隅で小さくうずくまるグリエルモの傍に駆け寄ると、そっと小さな声で囁いた。しかしグリエルモは先ほどの言葉が相当応えているらしく、ソフィアには背を向け話も聞きたくないと膝を強く抱きかかえる。いつもなら機嫌を取り戻すのはさほど難しくは無いものの、時間を惜しまれる状況だけにいちいち心を砕くのは面倒である。普段は何も考えていないクセにこういう時だけ繊細になるグリエルモに苛立つものの自分が苛立ってもグリエルモが機嫌を直す訳ではなく、しきりに感情を抑え笑顔に努める。後ろから抱き締め普段のように優しい言葉をかけなだめてみるが、この状況に感じている焦りが伝わっているのか一向に機嫌を直してくれない。その間も周囲から聞こえるアヴィルドの咆哮や建物の倒壊する音が一層の焦りを煽り立てる。
 そんな中、他人事のように構えているトアラがふと口を開いた。
「いい加減、よくあの勢いが持続するものだな。そんなに大事なギターなのか。どれ、特殊な音でも出るか?」
 そう呟き、手にしたギターの弦に指をかけ鳴らす。直後、ソフィアは全身を震わせ背中を硬直させた。
「馬鹿! 何やってるのよ!」
 そう怒鳴るソフィアに、不思議そうに首を傾げるトアラ。自分が怒鳴る理由が伝わっていないと思ったソフィアは、もう一度弦に指をかけようとするトアラを慌てて制止し説明をしようとする。だがそれよりも先にソフィアが言わんとする事が頭上で起こった。
『ココニ居タカッ!』