BACK

 頭上からこちらを見下ろす黒い影。その竜は全身を光沢のある黒い鱗で覆い、目は真っ赤に輝かせ、大きく開いた口元からは鋭い牙が覗いている。何もかもが人間と比べ物にならない力を持つ存在、それに頭上から見下ろされ恐怖感を抱いてしまう事を恥ずかしいとは少しも思わなかった。
「ヤット、見ツケタゾ。薄汚イ猿メ!」
 アヴィルドはソフィアが背負っていた壁を倉庫ごと半分に引き千切り、残骸を踏み締めながら襲い掛かってくる。
「逃げるわよ!」
 ソフィアは叫びグリエルモの袖を掴む。しかしグリエルモはこの後に及んでも不貞腐れたままで、その場からまるで動こうとはしない。とりあえず、グリエルモが黒鱗を相手に負ける事は無いだろう。そう踏んだソフィアはあっさりその場へ捨てると自分だけその場から飛び出し走り始めた。
 竜とは圧倒的な体格差はあるものの、小回りでは圧倒的に自分が有利。迷い無く港を駆け抜ければ、元々自分は黒鱗達とは何の因縁も無いのだから簡単に振り切れるだろう。そうソフィアは踏んでいたが、何故か幾ら走っても走っても竜の足音が背後から消えて来ない。それどころか自分を追って来ているような感すらある。
 何故自分を追ってくるのだろうか? 疑問に思ったソフィアは走りながら背後を振り返る。するとそこには、ぴったりと自分の後ろを追走するトアラの姿があった。
「ちょっと、何で付いて来るのよ! 私まで危ないじゃない!」
「こちらとしては、銀竜を思い通りに動かせるお前を見失うのは惜しいのでな」
「さっきのやり取り見てたでしょ!? 完全に思い通りじゃないわよ!」
「それでも、本当に危険な状況下に置かれれば銀竜は助けるだろう。私はそこで雨宿りをさせて貰う」
「だったら、早くそのギターを返しなさい!」
「これは調査用の大事な資料でな」
「まだそれか!」
 まるで当事者意識の無いトアラ。こういった人材に税金が注ぎ込まれていると思うと苛立ちが募ってくる。しかし今はトアラに気を取られている場合ではない。とにかく逃げなければ。
 いきなり走り出したせいで足が痛み出すものの、それを忍し堪えてひた走るソフィア。しかしトアラは普段の涼しげな表情で併走する。
「一つ訊きたいのだが」
「何よ、こんな時に!」
「どうしてアヴィルドは、あそこに我々が隠れていると分かったのだろう?」
「竜はね、人間よりもずっと耳がいいの。あんたが愛用のギターを鳴らしたから、場所を聞きつけたのよ」
「なるほど、そういう事か。しかし、ギターの音を聞き分けられるなら、我々の声も聞き分けられたのでは?」
「あんたには動物の鳴き声が聞き分けられる? 竜にとってはそういう事なのよ」
「貴重な情報、参考になったよ」
「ってか、あんたら諜報員って本当に竜の調査してる? 随分知らないことばかりじゃない」
「竜と対峙しなければ得られないような情報を持っているお前の方が、我々にとっては驚愕だ。竜と長年行動を共にする神経など、統計的に正常とは定められない」
 一般人よりも竜と縁のあるトアラでさえ、むしろ竜と日常的に接している自分の方が異常に思うものなのか。これまでさほど意識していなかっただけに、改めてトアラに指摘されソフィアは思わず口ごもる。自分は竜という存在をペットかそれぐらいにしか考えていなかったが、国からして見れば治安を乱しかねない非常に危険な存在である。それを安穏と眺めていられるはずもないのだ。
「待テ、ドコ二行ッタ!? ソコカ!? イヤ、見間違ッタ! オノレ、馬鹿ニシヤガッテ! ドウセ僕ナンテ!」
 激情した時の竜の習性なのか、それともアヴィルド個人の癖なのか。相変わらず被害者意識の強い独り言を繰り返しながら追いかけてくるアヴィルド。目の前に自分のギターとそれを持ち去った人間がいるだけに、冷静さを取り戻すどころか激情は一層激しさを増している。堂々と背を見せながら走るトアラの行為は挑発でしかない。
「いい加減落ち着きなさい! 暴力は自らの音楽性を損なうわよ!」
「猿ガ音楽ヲ語ルナド百年早イ!」
「その程度で歴史を語るな、三下が! この根暗! 暗褐色!」
「オノレェッ! 何処ノ猿カハ知ラヌガ、竜族ヲ侮辱シタナ!」
「竜? あーら、トカゲの肥満児かと思ったわ」
 その言葉に怒りの頂点を飛び越えたか、アヴィルドはもはや言語ですらない意味不明の奇声を放ち、やたらめったらに手足を振り乱し吼え猛る。やがては奇声だけに留まらず、黒い霧の固まりを弾丸のように吐き散らし、より激しく周囲を破壊して行く。
「何故怒らせる? 鎮めさせるのではなかったのか?」
「協力もしないで良く言うわね。新しい生態が発見出来たって喜んだら?」
「なんだ、開き直りか。それともストレスの発散か?」
「両方よ!」
 その言葉は決して嘘でも無かった。ある程度感情を発散し気持ちを切り替えれば何かしら良い解決策が見つかるかもしれないと、そんな願いからだ。しかし人間開き直りだけで名案など浮かぶはずもなく、結局はただ状況を悪化させただけにしか過ぎない。
 とにかく闇雲に走り続け、運良く町から離れる街道へ抜ける二人。その後を手当たり次第踏み潰しながら追走してくるアヴィルド。燃えたぎらせた怒りの勢いに衰えはなく、言語とも雄叫びともつかない奇声を発しながら手足をばたつかせている。一方のソフィアは、普段滅多に走らないような距離をいきなり走ったため、息も絶え絶えで今にも倒れてしまいそうなほど疲労困憊した様子だった。さすがに職業柄体を鍛えているためかトアラは平然とした様子だったが、ふらついているソフィアには手を貸そうとすらしない。
 汗で滲み始めた視界にソフィアは立ち止まろうかどうかの葛藤を始める。しかし、そんな時だった。前方から見慣れた黒い影が凄まじい速さでこちらへ向かって来る様が目に映る。
「げっ、ヴェルバド!?」
「弟と挟み撃ちか。参ったな、まだ本部へレポートを提出していないのだが」
 トアラの冗談か真意なのか不明瞭な言葉など耳に入らなくなるほど疲れきったソフィアは、緩やかに減速を始め遂には立ち止まってしまった。