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 立ち止まり肩を上下させながら息を整えるソフィア。そこへトアラが息一つ切らせずに問いかける。
「諦めたのか?」
「色んな意味でね」
 トアラの訊ねに意味深な言葉と開き直った微苦笑で答えるソフィア。単純に逃げる事を諦めたという訳ではなさそうだが、すぐ後ろから地鳴りのような足音を立て追いかけてくるアヴィルドに対し随分と余裕のある様子にトアラは首を傾げる。
「私が一番大事にしているものって知ってる?」
「金だろう? 『お金があれば何でも買える』という発言記録が大量にあるからな」
「違うわよ。特にこういう時にね、最優先で守らなきゃいけないものがあるの」
 するとソフィアはおもむろにスカートの後ろ側へ手を突っ込み何かを探り出す。
「羞恥心では無いようだが」
「馬鹿ね、これよ」
 突然、疲れ切っていたはずのソフィアが猫のように飛び出すと、トアラの右手を掴み引っ張る。反射的に投げられまいと重心を落とし構えるトアラ。しかしソフィアは初めから力比べをするつもりは無く、トアラの抵抗にあっさりと手を離した。
「む……?」
 ソフィアが離れた直後、トアラは思わず眉間に皺を寄せた。いつの間にか自分の手には一本のナイフが握らされていたからである。
「まるでプロのスリのような技術だな」
「お褒めに与り光栄よ。育ちが悪いものでね」
「最優先するのは我が身とでも言いたいのか? 私にこんなもので竜と戦わせ、自分は逃げると。現実的ではないな」
「そんな訳ないじゃない。ホントにあんたの組織は調査不足よ」
 するとソフィアはいきなりヴェルバドの方へ向き直り息を深く吸い込む。そして、
「助けて、そこのカッコいい人!」
 突然声色を変え、普段なら営業以外では出さないような猫撫で声で叫ぶソフィア。その声が消えるか消えないかの所でヴェルバドが先に辿り着いた。
「あなたは確か、グリエルモが飼っていた雌猿ではありませんか? どうしてまたこんな所に」
「助けて下さい! 悪者に脅されているんです!」
 そしてソフィアは有無を言わさずヴェルバドの背に回り盾にする。状況が飲み込めず首を傾げるヴェルバド。しかしそこへ半狂乱の状態でアヴィルドが突っ込んで来たため、状況を問う前に慌ててそれを制止する。
「兄さん、落ち着いて下さい! どうしたんですか一体!?」
「誰ガ俺ノギターヲ盗ンダ!? エエイ、オ前カ、オ前モカ弟ヨ! チクショウ、馬鹿ニシヤガッテ!」
「とにかく落ち着いて下さい! もう二度と竜の姿で暴れたりしないと、五度も誓ったのを忘れたのですか!?」
「ウウウウ……」
 ヴェルバドに叱責され、ぎりぎりと歯軋りしながら立ち尽くすアヴィルド。しかし、やがて理性を取り戻し始めたのかゆっくりと骨を軋ませながら人間の姿へと変わっていった。だが服は竜の姿になった時に全て破いてしまったため、全裸の姿だった。
「ふむ、見事な変身だ。体積や容積はどういった理屈で変わるのか気になる所だな」
「ウウウ……うるさい、この猿め。早く俺様の……いえ、私のギターを返しやがれなさい……!」
「今日は喋りに随分無理があるな」
 ギターの件はともかく、ひとまずは前後不覚になるほどの狂乱から理性は取り戻した様子のアヴィルド。だが愛用のギターはトアラに取られたままであるため、時折瞳孔を爬虫類のような縦長なものに変貌させながらトアラを睨み付けている。
「ソフィア。事情は知らないが、我々はこんな仲間割れをしている場合ではないんだがな」
「誰が仲間よ。もう決裂したって言ったじゃない」
「あの、これは一体どういう事ですか?」
「私、あの人に脅されていたの。ほら、あのナイフで刺すぞって」
「はあ。別にいいのでは? あんな玩具で突かせるぐらい」
「私は人間だから死んでしまうのよ。それをあいつは利用しているの」
「そんな悪人にも見えませんけどね」
「いや、悪人だぞ弟よ! 私の大切なギターを奪っていきやがりました猿だからです!」
「兄さん、もうちょっと落ち着いて」
 アヴィルドの混乱はさておき、ヴェルバドは思惑通りトアラに対して不信感のようなものを抱き始めた。自分と竜とトアラという構図が出来上がる事で、そのままトアラとの事はうやむやになる。竜は子供のように素直で騙されやすい。言いくるめることには自信がある。
「弟よ、君のの後ろにいるその雌猿なのだが。僕を口汚く酷く侮辱したのだ。だから一度殴らせてはくれないか?」
「ええ、いいですよ。僕もついでに殴りましょう」
「待って。あれも、そこの人に脅されて仕方なくしたことなのよ」
「本心では無かったのですか?」
「もちろん。私も音楽で生計を立てる身、いつかは竜族のように素晴らしい音楽を奏でられるようになりたいと憧れはするけれど、馬鹿とかアホとかトカゲとかそんな事は微塵も思った事はありませんわ」
「弟よ。この雌猿は物の価値が分かるようだね」
「ええ、非常に好感が持てます」
 いよいよトアラに対する視線が厳しくなる二人の竜。次々と心にもない言葉が湧いて出てくるソフィアとは対照的に口数の少ないトアラは、ソフィアの都合の良いように勝手に脚色がなされていく。トアラとそれ以外という構図が更に鮮明さを増し完全な孤立状態に陥いるまでさほど時間はかからなかった。
 もはや進退窮まったかのように見えるトアラ。
 しかし、その時だった。
「頃合いだな。そろそろ奥の手を使わせて貰おうか」
 トアラはおもむろに何かを上着の袖から取り出すと、それを地面へと叩きつける。
「キャッ?」
 直後、小さな破裂音と共にそこから巻き起こった白い煙が爆発的にに広がり周囲へ広がった。匂いは無く、煙の濃さもはっきりと白く見えたのは初めだけですぐに薄まり周囲に溶け込んでしまう。
「なによ、これ。目くらましのつもり?」
「人間に害はない。気にするな」
「人間にって一体……」
 すると、
「うっ、痺れる……?」
 アヴィルドとヴェルバドが突然胸を押さえ苦しみ始めると、そのまま姿勢を維持できなくなり地面へ膝をついた。何事か訴えたい様子ではあったが、生まれて初めて味わう感覚のためか酷く混乱し爬虫類のようなうめき声をあげている。