BACK

 砂埃と喧騒に満ち満ちた港町。人々は錯綜する情報に踊らされ右往左往しながら町中を駆け巡り、その混乱に乗じて悪事を働く者も少なくは無かった。
 平穏な港町にこの混乱をもたらしたのは、突然現れた巨大な黒い怪物だった。目撃者によると黒い鱗の竜だったという。怪物はひとしきり町中で暴れ回りどこかへ走り去っていった。もう町に怪物はいないのだが、見えない不安を抱く者、不安を煽るもの、それに乗ずる者で溢れ返った町は未だに落ち着きを取り戻せてはいない。
 そんな街の中をグリエルモは一人歩いていた。時間と共に少しずつではあるが落ち着きを取り戻してはいるものの、未だ混乱に乗じて半ば暴徒と化した人間も少なくなく、平常通りとはとても言い難い様相である。
「たまには小生も強く出るべきなのだ。いつまでもソフィーの言わせたいままにするべきではないのだ。うむ、今回はソフィーが謝るまで許さんぞ。それもまた愛の形ー」
 グリエルモはぼそぼそと一人言を呟きながら頷いていた。ソフィアに罵られた事でへそを曲げていたが今回は珍しく強い態度に出るつもりなのか、自ら謝るつもりは無い様子である。しかし放っておかれるのも避けたいらしく、偶然を装って遭遇出来るよう歩き回っていた。
 音楽家らしく発表会以外の平素は静寂を好む事にしているグリエルモにとって、今の港町はひたすら耳喧しくて仕方なかった。元々竜族は聴覚が優れているだけあって、聞きたくもない喧噪が嫌でも飛び込んでくる。初め、その不快な音にも何かしら作曲のヒントが隠されているかもしれないと前向きに考えたが、結局の所は不快感以外の何ももたらさず、すぐにグリエルモはいちいち認識するまでも無いと耳を閉ざす。町中には焦げ臭さが漂っているため耳まで閉じればソフィアの居所がまるで分からなくなってしまうのだが、グリエルモはそれに構わなかった。たまにはソフィアに自分を追わせ愛情を確かめたいと考えたからだ。
「いやっ、やめて下さい! 誰か!」
 ふと裏路地の一角に差し掛かったその時だった。助けを求める女性の悲鳴に、グリエルモは何気なくその方向を振り向く。
「へへっ、まあいいじゃねえか」
「ちょっと遊んでくれりゃ何もしないからよ」
 一人の女性が数名のガラの悪い男に壁へ追い詰められている。路地の両脇を塞がれ、その女性は壁にぴったりと背を付け肩を震わせながら自分の体をぎゅっと抱き締めている。
 何が面白いのか、この時勢に良くも遊んでいられるものだ。
 人間を猿としか見ない竜族にとってその出来事はさほどの興味も湧かない出来事で、グリエルモは冷ややかに一別しそのまままっすぐ立ち去ろうとした。
「まあいいから、おとなしくこっちこいよ」
「いやっ! 離して下さい!」
 男が女性の左手を掴み強引に引き寄せようとする。その拍子に、女性の腕から何かがこぼれ落ち地面へぶつかる。ぶつかった弾みでそれは小さな音を奏でた。
「なんだ? 竪琴か」
「音楽なんざ腹の足しにもなりゃしねえ。それより俺達と楽しいことしようぜ」
 女性の腕からこぼれた竪琴、それ地面に落ちた拍子に偶然奏でた音にグリエルモが立ち止まり踵を返す。そしてまるで興味も無く過ぎ去った裏路地へ一直線に向かっていった。
「そこの猿供、楽器を粗末にするとは何という低脳なのだ」
「なんだテメエは?」
「猿に意見は求めぬよ。さっさとその竪琴を拾いたまえ。そして完全に分解し洗浄した後、乾いた布で良く拭いて一晩陰干し、最後に光沢剤と潤滑油で仕上げるのだ」
「訳の分からねえこと言ってねえで、とっと向こうへ行け」
「言語を介さぬ猿か? それとも小生の猿語が間違っていたのか」
「痛い目見ないと分からねえらしいな」
 男は一度舌打ちし唾を吐くと、いきなりグリエルモに殴りかかった。男の丸太のような右腕についた拳は、柳のような体のグリエルモの顔面をまともに打つ。体格差は歴然の二人、次にどうなるかなど誰もが同じ事を想像した。しかし、
「……あ? うえっ!?」
 周囲に響き渡る鈍い音、その直後には男の腕が曲がってはならない方向へ曲がっている様が一同の目に飛び込んだ。一方のグリエルモは平然とその場に立ったままで微動だにせず、しかも思い切り殴られたはずの顔には痣一つ見られない。
「ふむ、軟弱な猿だな。どれ、治してやろう。反対側へ戻せばいいのかね?」
「ばっ、触るな! 何をしやが……! て、てめえ、何て馬鹿力だ! ぎゃー! やめろ! 折れた所を捻るな!」
「大体こんなものだろう? 第一、ぴったりくっつけるのは良くない。ある程度遊びを設けなくては。音楽も同じである。間奏があってこそ見せ場が際立つのだ」
 折れた男の腕を真剣な表情で玩具扱いするグリエルモ。その異様な光景に周囲はしばし言葉を失っていた。やがてようやく我に返ると、グリエルモの理解を越えた異様さに恐れを抱き一目散に裏路地を飛び出していった。遅れて腕が折れた男も情けない声を上げながらその後を追っていく。
「ふむ、どうやら壊れてはおらぬようだよ」
 グリエルモはそっと竪琴を拾って砂埃を払うと、一つ二つ弦を弾いて音を確かめ女性へと渡した。
「ありがとうございました。本当に危ないところを助けて頂いて」
「なに、音楽を愛する者は小生の仲間だよ。『音楽はー見えない輪ー世界を繋ぐー』」
 普段通り会話の途中で歌を挟むグリエルモ。聞き慣れていない者であれば大概無表情か微苦笑で受け流すものだが、その女性は思わずハッと息を飲んだ。
「あっ、あの! もしかしてあなたはグリエルモ様では!?」
「ふむ、小生も有名になったものだね。猿も覚えるようになったか」
「いいえ、違います。私をお忘れになったのでしょうか? 私です、オーボルトでございます」
「ふむ、誰だったかな」
 思い出す気があるのかどうか、グリエルモはさほど興味も無さそうに小首を傾げる。
「それでは、これをお聞き下さい」
 するとオーボルトと名乗った女性は竪琴を構え弾き始めた。
 僅か数小節を繰り返すだけの単純な曲だったが、オーボルトは節目ごとにリズムを変え様々な曲調を作り出す事で一つの曲として表現して見せた。グリエルモはオーボルトの演奏に思わず目を見開いたが、それよりも注目したのは演奏された曲だった。
「この曲は小生が大分前に書いたものではないか。まさに弦楽器用の曲を意識し始めた頃だ。譜面は無くしてしまったのだが、何故君がこれを?」
「私が無理に頼んで譜面を戴いたのです。グリエルモ様は快くお譲り下さいました」
「ふむ……おお、そうか。そう言われればそういう事もあった。あの時の君だったか。とすると、君の名は確かオーボルトといったかな?」
「ああ、覚えていて下さいましたか! 嬉しい……」
「覚えているとも。君は数少ない本物の音楽を知る音楽家だからね」
 満面の笑みを浮かべ感激するオーボルト。しかしグリエルモはその反応を良く理解出来ていないのか、やはり小首を傾げたままだった。
「本当にお久しぶりでございます。まさかこうして再びグリエルモ様にお会い出来ようとは。私、これには運命的なものを感じずにはいられません」
「運命とは必然だからね、そんな事もあるであろう。君は音楽の方はどうかね? 少しは上達したのかね」
「はい、オーボルトはグリエルモ様に少しでもお近づきになれるよう、日々精進を重ねております」
「うむ、結構な事だ。しかし前々から思っていたのだが、君の名前は女性の割に随分と無粋だね。いずれ小生が改名してあげよう」
「ああ、そのお気持ちだけで十分でございます。そうしてお気に留めていただくだけでオーボルトは幸福でございます」
 普通なら眉を顰めるその言葉。しかし何故かオーボルトの表情は嬉しさを通り越し恍惚とさえしている。言葉の中身よりも言葉をかけられる事そのものに感動しているような様子だ。
「ところで、君は何故旅へ出たのかね。猿の国は先ほどのようなもので溢れ返っているというのに」
「はい……その、グリエルモ様にお会いしたくて……」
「師事を仰ぎたい気持ちは分かるが、音楽とは自ら精進するものだよ。少しは努力というものをしたまえ」
「ですがその……実は……あの」
「はっきり言いたまえ。その髪の色もそうだが、口調まで陰気では音楽まで陰気になるよ。ただでさえ陰気な空気を放っているのだから、小生まで感染してしまいそうだ。音楽家ならその根暗な要素をなんとかしたまえ」
「はい、ありがとうございます。私のためにそんな御師事を戴けるなんて……」
 普通の感覚の持ち主なら、激怒とまではいかなくとも何かしら不快感を覚えてもおかしくはないようなグリエルモの言葉遣い。それでもオーボルトは、やはり嬉しそうに頬を赤らめていた。グリエルモはそんな彼女の仕草を訝しんだが、すぐに興味を無くし視線を離してしまった。