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 グリエルモは周囲を見渡し、通り沿いにある一軒のカフェを見つける。軒先に飾られた原住民族の彫り物に心を引かれ決めたようである。
「久々に音楽の分かる者と会えたのだ、少々語らわぬかね?」
「はい、勿論です。お誘い戴き嬉しいですわ」
 この騒ぎの中、明らかに平常通りの営業を行えていない様子だったがグリエルモが気に留めるはずも無く、勢い良くドアを開けて中へ押し入る。
「あ、すみません。今日はもう店はやってないんですよ」
 店内にいたのは、まさに戸締まりを始めていた店主一人きりだった。しかしグリエルモはそんな事など構いもせず、店内で一番見晴らしの良さそうな窓際の席へとついた。
「グリエルモ様は何にいたしましょう?」
「任せるよ。君も好きなものを頼みたまえ」
 突然やって来てはマイペースで事を進める二人の客に、第一声を無視された店主は露骨に顔をしかめてみせる。しかしオーボルトに人の良さそうな笑みで一礼され、仕方ないと照れ臭そうににやつきながら戸締まりを一時中止し、営業の準備のため厨房へ引っ込む。
「最後に別れてからどれぐらい経っただろうね。もうどこまで数えたか忘れてしまったよ」
「私は今でも昨日の事のように覚えています。あの雄々しい姿、脳裏に焼き付いて消えません」
 元々数も厳密に数えたりはしないグリエルモだが、オーボルトとは久方ぶりの再会となったことだけは覚えているようである。オーボルトがそれを知っているのかどうかは定かではないが、その当時の事を思い出し悦に浸っていた。
「グリエルモ様はマンドリンを未だお続けに?」
「無論だ。これを見たまえ。何か分かるだろうか?」
 得意げにグリエルモは背負っていたケースをテーブルの上に置くと、蓋を開け自慢のそれを取り出す。オーボルトはいきなり触れる事はせず、目を見開き顔を近づけてまずはその外観を確かめる。
「これは……まさか。世に名器と謳われる『青髭男爵』では?」
「さすがだね。やはり君は違いが分かる音楽家だ。名はどこで聞いたのかね?」
「以前、たまたま定期船で楽器商を営む人間から。斑に青い外観の楽器は皆そう呼ばれているそうです。それらは非常に高価で、人間の一生ぐらいでの働きでは手が届かないとか。一体どのような経緯でこれを?」
「あるところに兄弟といがみあっていた猿の貴族がいてね。小生が軽く演奏してみせたところ、今にも失神しそうなほど感動してね。それで自分が持つよりはあなたが持っていた方が良いと譲ってくれたのだよ」
「人間にも物の価値が分かるものが居るのですね。確かにグリエルモ様がお持ちになられた方が楽器も幸せですわ」
 心の底から感動するオーボルトの様子に、見え透いた御世辞さえ真に受けるグリエルモは満面の笑みを浮かべ上機嫌になる。オーボルトはグリエルモが上機嫌になる事が嬉しいらしく、より喜ばせようとあれこれと賛辞を過剰にならない程度に並べていった。
「どれ、せっかくだから物の分かる君のために一曲進ぜよう。この名器も違いの分かる者に聞いて貰う方が幸せであろう」
「そんな、私のためだなんて、恐れ多い……でも、嬉しいです」
 オーボルトは頬を赤らめ感極まった小声でつぶやく。しかし人の話を聞かないグリエルモの耳にそれが届いているはずもなく、すぐさまグリエルモの演奏が始まった。
「『あーあー、どうせこの世は来世までの休憩地点ー、休むのは時間の無駄だから早く次へ行こうー』」
 音楽はともかく、到底聞くに堪えない駄声と珍妙な歌詞はとても歌として成立しているとは言い難かった。しかしグリエルモはこれを至高の音楽として信じてやまず、むしろ自信に満ち溢れ堂々と演奏を繰り広げている。そして唯一の聴衆であるオーボルトは目を閉じ僅かに肩を揺らしてリズムを取りながら恍惚の表情でこの怪演に聞き入っていた。
 しばらくして、奥から店主が小走りに二人の席へやって来る。グリエルモの歌声に何事かと眉をひそめたものの、何かの悪ふざけと思ったのかあえて聞こえない振りをし、話の通じそうなオーボルトへ話しかける。
「お待たせしました。ちょっと準備に手間取ってしまって。ご注文は何にいたしましょう」
 すると、
「ア”ァッ!?」
 演奏の途中に話しかけてきた店主を、オーボルトは異様な声を吐きながら殺気立った表情で睨みつける。その瞬間、店主の顔は強張り急激に顔色を青褪めさせた。
「ヒ、ヒイッ!」
 店主は悲鳴を上げながら一目散に店を飛び出していく。邪魔者もいなくなったオーボルトは再び目を閉じグリエルモの音楽と歌声とに聞き入った。
 やがて演奏が終わりグリエルモが決めの仕草を決めると、そこにオーボルトは惜しみない拍手を送った。義理やマナー的なものではなく、本当に心からの拍手だった。目元にはうっすらと涙さえ浮かべている。そういった所には敏感なグリエルモはオーボルトの反応に殊更気を良くする。
「ところで、さっきは何かあったかね? 猿の鳴き声が聞こえた気がしたが」
「いいえ、何でもありませんわ。ただの無粋な輩です」
「なるほど。音楽を理解しない無粋な者は駆逐してしかるべきだね」
「まったくですわ」
 オーボルトの音楽に対する価値観は非常にグリエルモと似通っている。一言で言えばただの非常識なのだが、実際の音楽の才は両者には大きな差がある。しかしそれを二人はまるで認識していなかった。自分達が良いと思うものは良いのだと、ひたすら盲目的に信じてやまない。その意思が良くも悪くも規格外の音楽を生み出している。
「……あの、グリエルモ様。実は一つお願いがあるのですが……、聞いていただけませんか……?」
「何かね」
「このオーボルトだけに曲を書いて戴けたらと……」
「構わぬよ。今日の小生は気分が良く創作意欲に満ち溢れている。少し待ちたまえ」
 そしてグリエルモはすぐさま万年筆と白紙の譜面を広げ取りかかり始めた。オーボルトはそんなグリエルモの姿を無言のまま、しかし恍惚の表情で見つめていた。