BACK

 黒い竜の騒ぎはおさまったものの、臨時の自警団による取り締まりや救援活動が本格的に始まり、外の喧噪は未だ続いている。
 煽てられれば幾らでも曲を書き上げるグリエルモは、未だに喫茶店の中で精力的に筆を走らせていた。向かいの席に座るオーボルトはグリエルモの真剣な眼差しを陶酔の表情で見つめている。店の真向かいから火の手が上がり消火活動が始まっても、二人はまるで関心が無いとばかりにその場から動こうとしない。人間のする事には音楽以外一切の興味が無い、竜にしてみればごく当たり前の事だった。
「うむ、出来たぞ。我ながら素晴らしい出来だ」
 やがてグリエルモもは達成感に満ちた表情で筆をしまい譜面を整える。普通の人間ではありえないペースでの作曲と量だったが、一晩で何十曲も書き上げる事もあるグリエルモにとっては極当たり前の事だった。
「さて、早速御披露目と行こうか。静かにしていたまえ」
 嬉々としてマンドリンを調律し始めるグリエルモにオーボルトは黙って従う。その眼差しは既に期待と興奮に満ち溢れており、楚々とした素振りをしているものの押しこらえた鼻息の荒さだけは隠し切れていない。
 やがて奏で始めたのは、マイナー調の物静かな曲だった。しかし何故かグリエルモの歌とその歌詞は無闇に明るいもので曲風には全く合っていない。オーボルトは陶酔し曲に聞き入っているが、普通の人間にしてみれば不愉快以外の何物でもない。
 グリエルモは作詞や歌唱力は皆無というよりむしろマイナスというレベルなのだが、作曲に関してだけは本物の実力があった。ソフィアはその部分だけは評価し、グリエルモには作曲と演奏ばかりをやらせて来ていた。ソフィア自身は歌唱力も集客力もそれなりにあるため、両者は丁度良いバランスが取れていたのである。歌唱力が一度発揮されればどのような名曲も雑音に変わり果てる。しかしオーボルトにとっては内容よりも奏者が誰であるかのみが重要であった。
 小一時間ほど続いた演奏後、再びグリエルモは白紙の譜面を広げ新たな曲作りを始めた。当初とはすっかり目的が違っていたが創作意欲に火がついたのかひたすら筆を走らせ続け、オーボルトは特に何も言わずただグリエルモの一心不乱な様子を穏やかに眺めている。
「ふむ、白紙が無くなったな。君は持っていないかね?」
「はい、少しだけでしたら」
 オーボルトは手荷物から真新しい白紙の譜面を一束取り出してグリエルモへ差し出す。グリエルモは再びそれに向かって筆を走らせるものの、オーボルトの譜面は十分ではなくあっという間にそれも使い果たしてしまう。
「まだ途中だが無くなってしまったな。まあ良い、続きはいずれ書くことにしよう。小生、一度閃いた音階と曲想は忘れないからね」
 満足し切れてはいない様子ではあったが、譜面が無ければ仕方がないとグリエルモは譜面を折りたたんでしまう。
「ところで、店主はどうしたのかね。いい加減注文を取りに来れば良いものを」
「先ほど出て行かれましたわ。私にはああいった種族の考える事は分かりかねます」
「音楽の機微も分からぬ連中だからね。音楽家同士、水を差されず語り合える方が良いだろう」
 グリエルモにしてみればさしたる意図も無く放った言葉だったが、オーボルトにはそれが二人きりという状況を強調する言葉を連想させるものに聞こえたのか、思わず赤面し顔をうつむけた。
「と、ところでグリエルモ様。今も旅をお続けになられているのでしょうか?」
「うむ、そうだよ」
「どこかへ落ち着くという事はお考えなられてはいないのでしょうか?」
「無いね。音楽というものは果てしない道のりだからね、小生ですら未だ七割程度しか到達していない」
「そうですか。やはりグリエルモ様は志が高いままでいらっしゃいますね。最近はどのような活動をされているのでしょうか?」
「ソフィーとね、世界中を巡っては猿供に竜族の素晴らしい音楽を知らしめているよ。まあどこへ行っても小生の音楽は感動の渦を巻き起こしているからね、いささか張り合いというものが薄れているがね」
「ソフィー?」
「ソフィーとは小生だけが許されている愛称だよ。その他大勢はソフィアと呼びたまえ」
 耳慣れない女性の名前がグリエルモの口から飛び出した事に、たちまちオーボルトの表情が曇る。
「あの、そのソフィア様というのは私の存じ上げている方でしょうか?」
「そういえば君は知らなかったね。紹介をしてあげるから、一度君も会ってみると良い。彼女の歌声はまさに天使の囁きが如く、そのステップは野鳥のように力強く軽やかに。これまで自分がこの世で最も優れていると思っていたが、ソフィーと出会ってからは驚き感心させられる事ばかりである。まさに小生にとっての太陽だ」
「そ、そうですか……。グリエルモ様がそれほど賞賛されるという事は、さぞかし素晴らしい音楽家なのでしょう。ところで何処の部族の方なのでしょうか? 東のクーヴァ族か、西南のドナハ族か」
「いや、ソフィーは人間の娘だよ」
 唐突に飛び出したその言葉に、オーボルトは我が耳を疑いその場に凍りつく。
「はい? 今、何と……」
「だから、人間の娘だよ。我ら竜族ではない」
「……あの、まさか私をからかっていらっしゃる……でしょう?」
「小生は冗談は好かぬ生真面目な性格だよ。忘れたのかね?」
「い、いえ、その、失礼……いたしました」
 グリエルモに軽く睨みつけられ萎縮するオーボルト。しかしうつむけたその顔は険しく強張っており、穏やかではない心中の様子がありありと表れ出ていた。グリエルモが嘘や冗談を言っている様子ではないが、とても俄かには信じる事が出来なかった。多少の事では驚かないつもりではいたものの全く予想出来なかった展開に気持ちの整理が追いつかず、無意識の内にギリギリと音を立てて歯軋りを始める。
「……まさかグリエルモ様が、人間如きにたぶらかされていたなんて……」
「何か言ったかね?」
「え? い、いえ、ただの独り言でございます。お耳汚しを……」
「独り言が趣味なのかね? 気味が悪いから他所でやりたまえ。そういえば、つい最近もそんな黒っぽい奴を見た気もするが。まあ、思い出せないという事は大したことではないのだろうが」
 普段なら一言一句決して聞き逃さないグリエルモの言葉だったが、今のオーボルトには自分の気持ちを整理する事で余裕が無くほとんどを聞きこぼしてしまっていた。それほどにグリエルモが人間に対して心酔している事実が衝撃的だった。オーボルトは生まれてから一度として人間には暇潰し程度の好奇心以外に興味すら抱かなかった存在だったからである。
「当然の事とは思いますが、グリエルモ様は何時かお戻りになるのでしょう?」
「いずれはそのつもりだよ。音楽の道を究めた時にでも戻り、島で未だ燻っている音楽家もどきに教えを授けてやらねばね」
「そうですか……ですがその前に、グリエルモ様には一つお伝えしなくてはいけない事があります」
「何かね?」
「グリエルモ様、このオーボルトだけは何があってもグリエルモ様の味方でございます。それだけはどうか信じて下さい」
「いいから早く言いたまえ」