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「うむ、起きたかね?」
 ふと目を覚ましたオーボルトに、グリエルモはかすかに眉をひそめながら問いかける。
 すぐにオーボルトは自分の視界と体の重心がおかしい事に気がついた。どのように支えられているのかと見回すと、オーボルトは自分がグリエルモの左腕に腰の辺りから抱えあげられている事に気付き、思わず息を飲む。かつてこれほど広くの接地面積を取った事はなく、こういった触れられ方も初めての事だったため、恥ずかしさのあまり顔が見る見る内に紅潮していった。
「あっ、あ、え、その」
「何を寝惚けているのかね。まったく、人前で眠るのは失礼な事だよ? まあ小生は心は広いし、君は音楽を良く理解している貴重な者だから大目に見てあげるがね」
「はい、お手間を取らせました……」
「今回だけだよ。それで、もう歩けるのかね」
「は、はい」
 グリエルモに地面へ降ろされるオーボルト。しかし今の出来事のせいで気分は高まり、足下がふわふわと浮かび上がるような錯覚をしていた。かすかに残るグリエルモの体温を最後まで感じようと目を細めるものの、グリエルモはまるで構わず先へ進んでいってしまうためすぐ後を追った。
「あ、あの、グリエルモ様」
「何かね。歩けるなら早く歩きたまえ」
「その、まだ足がふらついてうまく歩けないと言いますか、その……肩を貸して頂けたらと」
「ふむ、構わんよ」
 グリエルモの許しが出るなり、オーボルトはとても足がふらついているような者とは思えない勢いでグリエルモの左腕にしがみついた。それは肩を貸して貰うというよりも腕にしだれかかっているような状態だったが、重い軽いという感覚の希薄なグリエルモにはさほど興味の無い事で特に見向きもしなかった。
 オーボルトは自分が上がり性でうまく言葉を話せない事を知っているため、左腕に身を寄せ体を密着させるのは精一杯のアピールのつもりだった。だが思考が自分と目先の事が中心のグリエルモはいちいち気に留めることもなく、ただオーボルトを引きずるように自分のペースで淡々と歩み進んでいく。
「グリエルモ様、やはり先程のお約束は果たしていただけるのでございますね?」
「約束? まあそうだね、小生は約束は破らない男であるからね」
「ああ、オーボルトは幸せです……」
「そうかね。良くは分からんが、幸せなのはそれで何よりだ」
 オーボルトの言動にはさほども興味を持ってくれないグリエルモだったが、オーボルトはグリエルモがそういう者だと知っているからか一つも気分を害する素振りもなく、ただ至福の表情でグリエルモの左腕に抱きついていた。グリエルモはそんなオーボルトの仕草が理解できないといった表情だったが、それについてもあまり興味が継続しなかった。
「ところでグリエルモ様は今何をされているのでしょう?」
「ああ、ソフィーの荷物を探しているのだよ。まあソフィーが謝るまで許すつもりは無いけどね? けれど猿供はすぐに他人のものを自分のものにするからね、ちゃんと荷物だけは拾っておいてあげないと」
「ソフィーとは、その……」
「さっき言ったではないかね。小生が敬愛する人間の娘、小生の太陽である」
 その瞬間、オーボルトの表情が険しく歪み奥歯が音を立ててこすれる。
「またしても、その人間か……グリエルモ様をたぶらかす害虫め……猿の分際でよくも」
「ぶつぶつうるさいよ。言いたい事があるならはっきり言いたまえ。気色悪い」
「あ、いえ、何でもございません。失礼いたしました……」
 オーボルトはグリエルモが口にするソフィアという人間の存在が気に障って仕方なかった。人間がグリエルモを羨望視するのは、劣等種が優等種に憧れるのは当然の事だから無理からぬものだと考える。しかし万物の頂点に立つ竜族が、それも竜族の中で最も優れた竜であるグリエルモが、まさか人間如きに振り回されるなど決してあってはならない逆転現象だ。そして何より気に障るのは、グリエルモが人間に精神的に支配されているという事である。同じ竜族ならまだしも人間の娘にグリエルモを取られるなど、たとえ穏和で自己主張を極力控えるオーボルトでもプライドが許さなかった。
「グリエルモ様……おいたわしい事です」
「何の事かね、急に。良く分かるように話したまえ」
「このオーボルト、誠心誠意を尽くし必ずやグリエルモ様の心の隙間を埋めてみせましょう。ですから、猿の雌の事などお忘れになって下さい」
 すると、グリエルモは珍しく苛立ちを滲ませた様子でオーボルトを睨んだ。顔の造形は人間のままだったが、その目は爬虫類のように異様に上下へ膨れ上がっている。
「良く分かった。だが幾ら君でも、ソフィーを侮辱するならば許さんよ」
「ですがグリエルモ様は、人間などと本当に添い遂げるおつもりですか?」
「添い遂げる?」
 グリエルモは質問の意味が理解できていないらしく首を傾げる。オーボルトは言葉を選び直した。
「つまりは、二人で同じ時間を共にするのか、ということです。人間は我ら竜族に比べ遥かに脆弱で愚かで歪で汚らわしい生き物です。そんな存在が、我ら崇高な竜族と同じ時など歩めはしません」
「歩むとか道とかなんて時代遅れの観念だよ。それに寿命はともかく、ソフィーは愚かではないよ」
「本当にそうでしょうか? 人間は竜とは違いすぐ嘘をつく生き物です。グリエルモ様を巧みに騙し利用していてもおかしくはないのですよ。いえ、むしろ人間ならそうするはずです」
「有り得ないね。ソフィーと小生は既に一心同体の間柄であるから、そのような裏切りなど有り得ないよ。ああ、有り得ないほど有り得ない」
「人間にしてみれば、僅かな一生の間にほんの少しグリエルモ様と交差しただけとしか思っていないかもしれません。関わりがどれだけ濃いものでも、利益のためならあっさり裏切るのが人間です」
「君はしつこいね。有り得ないと言ったら有り得ないのだ。何故、そこまで言い張ってまで毛嫌いするのかね? 人間など可愛がってやれば良いではないか。下等生物に目くじらを立てるのはみっともないよ」
「それは……」
 するとオーボルトは急に周囲を見回し何かを確認する。
「グリエルモ様、しばしこちらへ」
 そしてオーボルトはグリエルモを倒壊した建物の影へと連れて行く。グリエルモは訝しげな表情をオーボルトへ向けていたが、取りあえず引かれるがままに後をついて行く。
「何のつもりかね。ここにソフィーの荷物は無いよ。匂いで分かる」
「いえ……グリエルモ様にお見せしたいものがあるのです」
「何かね。今更謝罪かね。幾ら面白いものを見せても、二度の無礼を許すほど寛容ではないよ」
 オーボルトはおもむろに自らの服の胸元へ手を伸ばすと、そのままボタンを一つずつ外し始めた。グリエルモは更に訝しげにそんなオーボルトの仕草を見ている。やがてボタンを外し終えると、オーボルトは服をはだけさせ自らの胸をグリエルモの前へ晒した。
「ふむ、何やら重そうだね。だから君は鈍臭くて、ソフィーは身軽なのか」
「あの、その……よく御覧下さい。真ん中の辺りです……」
 羞恥心で顔を赤らめうつむきながら訴えるオーボルト。しかしグリエルモはさほど興味も無さそうな顔で言われるがままそれを眺めていた。
 しかし、不意にグリエルモの表情が緊張の色に包まれ、驚きと険しさの入り交じった眼差しに変わった。
「これは……」
 いきり立ったグリエルモはオーボルトの胸を左右にかき分け、見つけたそれに沿って指をなぞらせる。端から見れば艶めかしい光景だったが、グリエルモの表情は真剣どころか殺気立ってすらいた。
「これは傷跡というものではないのかね……? 小生には無縁のものだが。一体どこの誰が、このような素晴らしい音楽家に暴力を奮ったのだ」
「この傷は少し前に人間につけられたものです。私はグリエルモ様の行方を探しておりまして、それで長旅をしていそうな方に訊ねてみたところ、どういう訳か良く分からない言葉でまくし立てられ、それからいきなり刃物を取り出して……」
 その時の光景を思い出したのか、オーボルトは顔を青ざめさせながら唇を噛みしめる。反対にグリエルモは怒りを堪えるあまり、みしみしと音を立てて顔の輪郭を歪めている。
「なんという酷い事を。おのれ、そのような下劣な猿は小生が殺してやるところだが、今は非暴力主義だからきっちり半殺しだ。いや、待て。人間如きに我らを傷つける事など出来ぬはず。一体どのような方法を使ったというのだ?」
「私もそう思っておりました。ですが噂によると、人間は竜族に対抗するための力を付け始めているそうです。もしかするとそれは、既に人間達の中に広まっているのかも知れません。グリエルモ様もお心当たりはありませんでしょうか?」
 物覚えの悪いグリエルモでも、それにはすぐに思い当たる節があった。背景はともかく、人間が竜を倒すために作ったという竜殺しの存在である。そしてグリエルモ自身も、それらしいものに襲われ危うく喉を抉られるところだったのだ、結末はともかく忘れようにも忘れられない腹立たしい一件である。
 オーボルトはうつむき加減にグリエルモから目をそらしながらはだけた胸をしまう。グリエルモはかけるべき言葉がすぐ見つからず、しばしそれを眺め続ける。これほど言葉を選んだのは生まれて初めての事だった。それほどグリエルモですら悩まされる複雑な事なのである。
「これが、君が人間を嫌う理由かね」
 その問いにオーボルトは小さく頷く。
 グリエルモは心痛な表情を浮かべ、ただ小さく頷き返すだけだった。