BACK

 夜も更けようやく町も波の音が聞こえ始める。しかし黒い竜の騒ぎの後始末が昨日の今日で片付くはずもなく、未だ町は主が避難中らしい空き家が目立つような状態だった。グリエルモはそんな中のとある一件の宿屋の一室で夜を過ごしていた。
 グリエルモはベッドに座り額を抱えていた。普段以上に何を考えているのか分かりにくい無表情で、手はマンドリンを持つ訳でもなくしっかりと握り締められている。ただ、目だけが暗闇の中でもはっきり分かるほど爛々と輝いていた。それは人間の目ではなく、比較的爬虫類のそれに近い縦長に伸びた瞳だった。
 きっと今、自分は竜と人間との選択を迫られているのだろう。
 普段物事を深く考えたりはしないグリエルモだったが、自分にとっての転機が訪れている事をおぼろげに感じ取っていた。
 今まで人間の事はただの下等な生き物としか見ていなかった。それはグリエルモにとって人間が竜の足下にすら及ばない劣等種と思っていたからである。そんなグリエルモにとって人間に対し特別な感情を持つオーボルトはあまりに意外で、同時に人間に対する認識を改めなくてはと思うきっかけとなった。
 人間は何の非も無いオーボルトに対し平然と暴力を奮った。グリエルモ自身にもそういった事はあったが、それは毛を一本抜くほどの痛みも感じない些細な事だったから、ほとんどの場合は気付くことは無く、気付いても寛容的になれた。だが、人間はいつまでも同じではない。弱いとは言っても竜族であるオーボルトに傷を負わせるだけの力を既に持ち始めている。その力が更に強まれば、やがて竜と人間が真っ向から対立するようになるかもしれない。だから竜である自分は今の内から竜族としての立場を明確にしなければならないように思う。
 人間は醜悪で愚かだが、竜に対抗する力を持っている。だから、竜にとって人間は悪の存在であると断言すべきだ。
 これが竜の取るべき明確な立場である。しかしグリエルモはそれを躊躇っていた。悪とするそのくくりには、ソフィアも含まれているからである。更にもう一つ。たとえ自分が竜族としての立場をはっきり示したところで、既に竜の島には自分の居場所は無く、ただ孤立するだけでしかない。一族にもソフィアからも見放されるなど、グリエルモにとっては想像するだけで恐ろしい事である。
「いや……そう結論を急いても仕方のない事だな。何事もこれまで通り、現状維持で良いではないか。それで事は丸く収まるのだ」
 しかし、人間は収めてくれるのだろうか? 竜という強すぎる生物を相手に恐怖せずにいるには、それ以上の力を持とうとするのが当たり前ではないのだろうか?
 そもそも、竜相手に平然と振る舞うソフィアが特異なのかもしれない。自分がソフィアと繋がっているのは単なる偶然であり、自分が運命的なものと感じるのはただの美化だった、そう考えるのが妥当なのだろう。そしてソフィアがそれに気づいていないとは思えないし、知っていてあえて口にしないのは自分との適度な距離を取るためだったのか。
 不意にグリエルモは背筋のざわつく不思議な感覚に見舞われ、咄嗟に自分の体を掻き抱いた。何故そんな行動に出たのか、そもそもこの感覚は何なのか、それさえもグリエルモには分からなかった。
「グリエルモ様?」
 不意に背後のベッドからオーボルトが首だけを出してグリエルモの方を向く。眠たげな目をこすりながら、小さなあくびを漏らした。
「なにかね? ああ、独り言を言っていたかな。うむ、気味悪がらせてすまないね」
「いえ、そんな。それよりも、まだ起きていらっしゃるのですか?」
「もう寝るよ。優れた音楽は夜に生まれるそうだがね、何事も限度があるものだ」
 そう笑い同じベッドへ潜り込むグリエルモ。オーボルトはそんなグリエルモに不安そうな眼差しを向けていた。
「グリエルモ様、明日にはここを離れましょう。兄達が近くにいるようですから」
「そうだね。面倒事は極力避けろとソフィーも言っていた事だし」
 またしても口にする人間の名にオーボルトは僅かに眉をひそめる。しかし、それについて口を挟もうとするとグリエルモは途端に不機嫌になる。今も眠らず考え込んでいたのもきっとそのせいだろう。そう思うオーボルトは、これ以上ソフィアの事についてグリエルモに意見は出来なかった。
「明日ね、ソフィーを探して会ってみるよ。今回も本当は悪いのはソフィーなんだけど、ここは一つ度量の大きさを示してね、こちらからちゃんと謝る。ソフィーも怖いけれど優しいから、きっとそれで許してくれるよ。全部元通りさ」
「グリエルモ様はどうしてそこまでして人間と繋がりたいのでしょう?」
「人間ではなくソフィーと繋がっていたいだけだよ。竜を怖がらない人間なんて滅多にいないよ? 君も会ってみると分かるよ。ソフィーは普通の人間とは違うんだから」
「……はい」
 心のこもらないオーボルトの返事。ソフィアなど顔すらも見たくないという本音が見え隠れしている。しかしグリエルモは相変わらずその事には気づかない。
「グリエルモ様、一度私と竜の島へ戻りませんか? 皆は私が説得いたしますから」
「君がかね? 面白い冗談だよ」
「い、いえ、私は本気です。それに、私はこうしてグリエルモ様と一緒になることが夢でしたから、そのためには何だって出来ます」
「そうだね。夢を持つことは素晴らしいことだよ」
「それでですね、その、私は来年に……その、発情期に入るので……、えっと、グリエルモ様と……その……」
「竜の島は今どうなんだろうなあ。なんか急に懐かしくなってきたよ」
 そこで眠気が差してきたのか少しずつ声を細めていくグリエルモ。オーボルトはそれを察知したのか、残念そうに口をすぼめるもののグリエルモを起こしてはならないと自分も目を閉じグリエルモに寄り添った。
 グリエルモは半分夢の中にいるのか、小さな言葉でぶつぶつと会話らしい言葉を時折呟く。やがてその言葉も無くなりしばし小さな嗚咽を漏らすと、そのまま静かに眠りについた。