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 宿は比較的被害も少なかったのか、さほど散らかった様子は見られなかった。しかし日も昇っているというのに全ての窓が閉められ、雨戸まで降りているため、建物の中は薄暗く足下に注意しなければならなかった。それでなくとも歩く度に床は軋み人気のない建物内に響くので、ソフィアは細心の注意を払いながら進む。
 宿泊室はどこも人気は無く、時折ドアが開けっ放しとなっている状態だった。中を覗いてみると、如何にも急の事で慌てて部屋を飛び出したと推察出来る散らかり様だった。ただ共通しているのが、どの部屋も必ず雨戸が閉められている点である。慌てて避難しなければならないような状況で、わざわざそんな手間を取るとは考えにくい。後から誰かが意図的に閉めたのだろうが、この状況では先ほどの黒髪の女性が妥当な線だろう。
 緊張感と締め切られている事から額に少しずつ汗が浮かんでくる。一体この建物で黒髪の女性は何をしているのだろうか、それが気になってはいるが、そもそも自分が無事に出られるかの方が心配で仕方ない。竜族の取り扱いはグリエルモで慣れてはいても、女性の場合は勝手が違う可能性もある。迂闊な手出しで危険な状況に陥ってもグリエルモの助けは無いのだ。普段のような適当な開き直りは通用しない。
 ほとんどがオープンスペースの一階を回り終え階段へ向かう。建物は珍しい四階建て、おそらく最上階は値段の高い特別室なのだろう。退路の問題もあるが、何かがいるなら最上階だろうと直感的に思ったソフィアは、先に四階から調べるべく階段を上っていった。
 四階は広い廊下にドアが三つ、その内二つが客室用という明らかに間取りが広く取られた設計になっている。ソフィアはまず右手のドアノブに手をかけ引いてみた。しかし宿泊客はいなかったらしく、ドアには鍵がかかっているため開く事は無かった。
 続いて左手の部屋のドアノブに手をかける。開放の方向へ捻ると、こちらは鍵がかかっていないらしくノブが限界まで回った。続いてドアを引いてみる。しかし何故かドアはびくともしなかった。
 鍵はかかっていないにも関わらず、何故ドアは開かないのだろうか。ソフィアは何度もドアを引いてみたが一向に開く事はなかった。だが、ドアの引く感触は鍵がかかっている場合とは異なっており、それでも開かないことに小首を傾げる。施錠部分の機構にぶつかった際に聞こえてくるはずの金属音がしない。となると、何かが挟まっているせいでドアは開かないのだろうか。
 周囲が薄暗いためあまり細かいものが見えないソフィアは、ドアに顔を寄せて何か異物が無いか慎重に確かめる。すぐさま、ドアが僅かに開いている事に気がついた。丁度拳大ほども開いているのなら、何かが挟まっているせいで開かないに違いない。
 そう考えていたその時だった。
「な、何か御用ですか?」
 突然、その僅かな隙間から女性の声が聞こえてくる。ハッと顔を上げるとそこには、ドアとの隙間からぎらぎらと輝く爬虫類のような目が一つ浮かんでいた。
「キャァッ!?」
 いきなり人外としか思えないものを見せられ、ソフィアは悲鳴を上げながら背後へ飛び退く。だがドアの中からも同じように驚きの声と床にぶつかったような音が聞こえてきた。
「あ、あの……驚かせてすみません」
「ちょっ、あんた、何、急に」
 再びドアの隙間から申し訳なさそうな女性の声が聞こえてくる。その声は先ほどの玄関にいた女性と同じだったが、その時とは違って遠慮がちに振る舞っている。それに対しソフィアは尻餅をついたまま必死にまくし立てた。
「ここには病人がいますので、御引き取り願えませんでしょうか……その、私としてもあまり騒がしいのはどうかと思いますし……」
「はっ、病人ってちょっとあんた。それよりも、あんた竜族じゃない。こんなところで何してるのよ」
「竜族? いいえ、何の事でしょうか。私には良く分かりませんけど……」
「隠したって無駄よ。あんた、さっき下で顔出したじゃない。私はね、いつも竜を連れてるんだから竜族の事は詳しいのよ」
「はあ……その、はい……」
 ソフィアの虚勢を象徴するようなまくし立てに、ドアの向こうの女性はしどろもどろになりながら言葉を濁す。その弱気な態度にソフィアは自分の方が立場的に強いと考え俄に勢いを取り戻すと、立ち上がりドアに詰め寄り一層強気の姿勢に出る。
「はっきりしないわね。とにかく、ドアを押さえるの止めて中に入れてよ。誰か匿ってるんでしょ」
「い、いえ、ここにはその、誰もいらっしゃいませんので……」
「病人がいるって言ってたじゃない。いいからちょっと見せなさいよ」
「どうしてそのような事を……いえ、はい、すみません」
「すみませんはいいからさ、ちょっと見せてよ。見るだけだから。何もしないって」
 ソフィアは一層強く詰め寄るものの、女性はひたすら謝り続けるだけで一向にドアを離そうとしない。力ずくでも開けたいが竜族が相手では勝てる見込みは無く、しかも下手を打ってこの女性を先ほどのように逆上させでもしたらこちらの命がない。
 この様子なら当分ここに留まっているだろうし、この場は諦めトアラの判断を仰いだ方が無難だろう。そう判断したソフィアは大きな溜息をつき踵を返そうとした。だが、
「うう……ソフィーの匂い……」
 突然、ドアの中から明らかに別人の呻き声が聞こえてくる。若い男のような声に思えるが、竜独特のしわがれが混じっている。
 その聞き覚えのある声にソフィアは思わず足を止めると、すぐさま猛然と再びドアへ詰め寄った。
「ちょっと、今のグリの声じゃない!」
「はい? グリとは何のことで……」
「グリエルモよ! 竜族なら知ってるでしょ、その銀竜! あんたグリに一体何したの!?」