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 それから夕方までの時間は非常に憂鬱だった。
 トアラには正面切って悪態をついたせいで顔を合わせ辛く、ずっとオーボルトと一緒に奥の部屋でグリエルモの様子を窺っていた。トアラは性格上こちらが臍を曲げても何とも思ってはいないだろうが、あの心中の窺い知れない表情を見るのは息が詰まって仕方なかった。それにこちらが一方的に苛立っている姿を見せるのは、人間的な小ささを露呈しているような気分になるため奥の部屋へ移ったのだが、それはそれで自分のそういった心理もトアラには読まれていそうで気分が良くない。どの道気分が良くないのなら顔を合わせないだけマシというだけである。
 グリエルモは相変わらず体調を崩したままで、竜なのか人間なのか分からない姿のままベッドの上で悶え苦しんでいる。医者を呼ぶ案は現実的ではないが、この状態が長く続くようならば実現する事も視野に入れる必要が出て来る。日が傾き始めると急に政府からの援軍が気になり始めたが、もしかすると政府は竜について研究しているから治療手段を知っているかもしれない。ただの町医者に診せるよりは効果的かもしれないが、その分の見返りを求められる事が怖い。政府とはこれ以上接点を持ちたくないが、グリエルモの状況によってはそれも致し方ないだろう。
 また面倒な状況になって来た。そうソフィアが苛立ちながら気難しい表情をしていたその時だった。
「あのソフィアさん……」
「なに?」
 オーボルトが恐る恐るソフィアに訊ねてくる。オーボルトの趣旨を明確にしないじれったい物言いには理解を示していたつもりが、どうにも今は物事に寛容になれない心境のため、咄嗟に苛立ちを露骨にした返事をしてしまう。それを受けたオーボルトもまた怯えた目でソフィアを見、更に萎縮してしまう。
「いえ、その……あの」
「何? 早く言いなさいよ」
「えっと……私の存じ上げない猿……いえ、人間の気配がするのですが」
「人間? 政府の奴ら?」
「そこまでは……あまり興味もありませんし」
「ちっ……」
 危機感の無い竜族に来訪者まで期待しても仕方ない。すぐさまソフィアは舌打ちを残し部屋を飛び出していった。一体いつの間に連中はやってきたのだろうか、自分の知らないところでまた何か勝手な事を決めてはいないだろうか、そんな被害妄想めいた苛立ちを思い浮かべ顔には一層の険しい表情を刻む。しかし、
「どうした?」
 慌てて飛び出したソフィアの視界に入って来たのは、昼間と変わらぬ仕草でテーブルに佇むトアラと、檻の中で縛られたまま眠りこけている黒鱗達の姿だけだった。
「政府の援軍は? 今、来たんでしょ?」
「いや? 急にどうしたんだ」
「隠してるんじゃないでしょうね」
「意味の無い事はしない。それより、もしかして疲れているんじゃないのか?」
「ノイローゼの疑いだったら御心配なく。元の生活に戻ればすぐに回復するから」
「そうか。御健勝、何よりだ」
 それは皮肉かと怒鳴ってやりたくなったものの、それでは冗談で言ったノイローゼを本当に疑われてしまいかねない。ソフィアは自分の気持ちをぐっと抑える。
 普段は思った事を普通に口に出すグリエルモを抑える事ばかりで、自分は常に本音を抑えているつもりでいた。けれど、最近の生活はそれにも増して言葉を我慢する事が多いように思う。もしかすると自分は元々人より本音で物を語っていたのではないかとすら思えてくる。
「オーボルトが誰か来たって言ってるんだけど、まさか隠してないよね」
「何故だ。そうする理由が私には無い」
「そう。だったらいいの」
 如何にも自分はあなたの言葉など信用していないとばかりに、皮肉めいたあざとい笑みを浮かべてみせる。トアラはそれでも相変わらずの無表情で、理解が出来ないと小首を傾げる事すらせずただただ平素の様子で見やるだけだった。そんな見慣れた態度も自分を小馬鹿にしているように思えてならず、咄嗟に思いついた言葉を口に仕掛けたその時だった。
 突然、倉庫のドアが外からノックされる。それも普通のノックとはやや異なる仕方だった。最初に普通の間隔で三つ、それからすぐに素早く二つ、そしてまた素早く二つ、最後に普通の間隔で三つ。明らかに何かしらの合図としか思えないノックだ。
「あれ、来たんじゃないの?」
「そのようだな」
 どうやらオーボルトの言っていた人間の気配とは、まだこちらに向かってくる最中のものだったようである。竜が物音にも敏感なのは知っているが、気づいた事を人間に伝えるのなら人間に合わせた感覚で言って貰わなければ意味が無い。次からはきちんと人間の感覚に合わせるよう教え込む必要がある。
「ところでさ。もしかして、今のノックは合図のつもり? 明らかにバレバレよね」
「いや、これは暗号だ。関わっても用件を表している」
「ふうん。どこかで盗み聞きされ真似られても大丈夫って事ね」
 トアラが入り口の鍵を外し彼らを中へと招き入れる。倉庫内に入って来たのは二人のスーツ姿の男だった。しかし上着のバランスからして、明らかに得物を忍ばせているのが窺える。一見極普通の城勤めにも見えるが、その雰囲気からは明らかに堅気ではないものが感じられる。
「私が諜報部のトアラ、あちらの娘は民間の協力者です」
「私は特捜部のトラウス准尉です」
「同じくリンクス曹長です」
 男二人は機械の様に整った仕草でトアラに一礼する。その姿が奇妙だったのか、トアラは一瞬怪訝な表情を浮かべる。ソフィアはそれほど注目していた訳ではないので確証は持てないものの、少なくともトアラの表情が少し動いたのは確かである。これは驚くべき出来事だ。トアラがこんな何気ない日常の出来事で表情を変えるなど、とても考え付かないからである。