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 トアラが一体どんな意図で出た行動なのか。咄嗟にソフィアの脳裏に浮かんだのは、アヴィルドやヴェルバドと同じようにオーボルトを眠らせ軍部に引き渡そうとするトアラの姿だった。だが、今回はいささか様子が違っていた。
「き、貴様……」
 苦悶の表情と共に呻き声を上げたのはオーボルトではなく、目前のトラウス准尉とリンクス曹長だった。二人はさも悔しげな表情でトアラを睨みつけながら倒れこみ、そのまま床に突っ伏した姿勢で意識を失った。
「え……? 何、何があったの?」
「これは人間用の催眠ガスだ。人間にしか効かない」
「なんであんたは効かないの?」
「私は解毒剤を予め服用している」
「私は? そんなの飲んだ覚えないけど」
「同じものを食事に混入している」
 平然と答えるトアラ、しかしソフィアは感心などしなかった。抜け目が無いというよりも、こういうものを無断で人に飲ませてしまう人間性を疑ってしまう。こういう事態に備えての事ならば、きちんと説明すれば何も無闇に拒絶する事はなかったのだが。
 トアラがした事は分かったが、それでもまだ状況が飲み込めない。一体これはどういった意図があり、これから何をするつもりなのか、それが見えてこないのだ。
 そんなソフィアを後目に、トアラは早速二人の様子を確認し始める。アヴィルドやヴェルバドにした時と同じ調子だとソフィアは思った。案外トアラは、人間も竜も同じ駒としか見ていないのかもしれない。
 ふと、自分の手を万力のように握り締めるオーボルトの手に気が付き、ソフィアは背後を振り返った。オーボルトは相変わらず怯えた様子でトアラの方を窺っている。
「ちょっと、力強いってば。手が折れるじゃない」
「え? あ、ごめんなさい……。無駄に弱いのを忘れてまして……」
「まったく。この中で一番強いクセに、本当に臆病ね」
 程無く二人が完全に意識を失っている事を確認し終えたトアラは、今度は目を覚ましてもすぐには動けぬようにと二人の体を念入りに縛り柱に括り付けた。組織的には直接繋がりはなくとも同じ政府の傘下にある組織同士、こんな横暴が認められるとはとても思えなくとも、トアラがどれだけ本気で腹をくくっているのかが窺い知れる。
「さて、オーボルト。お前に用がある」
 邪魔者はいなくなったとばかりに、トアラは手を払いながらこちらを向き直る。表情こそ相変わらずの無表情だったが、眼差しだけは異様な殺気に光っている。トアラは諜報部が作ったという竜殺しも持っているが、今にもそれを抜き放ちそうな雰囲気だ。
「ちょ、ちょっと待って」
「何だ」
 凄まじい殺気の篭った目で睨まれ硬直するソフィア。これまで数え切れないほどの荒事には遭遇してきたが、ここまで強烈な威圧感を放つ人間は初めてだった。もしもトアラが政府筋の人間ではないと初めから知っていなければ、おそらくこの一睨みだけで心を折られていたに違いない。
「黙ってた事は謝るけどさ。何も問答無用でってのもさ」
「当然だ。当時の経緯を聞いた後にしかるべき処断を行う」
「処断って、大差ないじゃない」
「こちらは元からそのつもりだった。お前と認識の違いがあったとも思っていない」
「そうだけど。でもさ、ちょっと待ってくれないかしら。いい感じに後戻り出来ない状況に追い込んで貰った所悪いんだけど」
「竜族の肩を持つつもりか? 冗談のつもりならここで退け。今の自分がどうしようもないほど感情的になっている事は自覚しているが、それを抑えるつもりは更々無い。余計な怪我をしたくなければおとなしくしていろ」
 トアラは無造作に右手を持ち上げこちらに向ける。そこにはいつの間にかあの竜殺しが現れていた。目にも留まらぬ速さで抜いたのか、傍目からは分からぬよう予め袖の中に隠し持っていたのか。諜報員は場合によっては暗殺も任務とするのだから、そういった技術も習得していて当然なのだろう。
「別にあんたの邪魔をするつもりはないわよ。納得いかない所があるから待て、って言ってるだけ」
「何が納得いかないのだ。私はもう頭の中で辻褄が合っている。オーボルトをここで殺す、それで全て完了だ。こうして対峙していても何一つ行動を起こせない臆病な好都合だ」
「本当に辻褄合ってると思ってる? 自分を抑えられなくなってるんでしょ。都合良く考えてるだけじゃん」
 ソフィアの言葉に心当たりがあるのか、それとも単純に苛立ったのか。トアラはおもむろにソフィアへ向けていた目を鋭く細めた。目つきが変わるだけでも印象は豹変する。トアラの場合はその眼差し通り刃物を連想させられ、背筋に嫌な痺れを感じてしまう。その背筋にはオーボルトが盾にするかのようにぴったりとくっ付き震えている。正直恐ろしくて震えたいのはこっちの方だが、ここまで頼られてしまえば無碍に扱う気にもなれず、仕方なくさせたいようにさせておく。
「そこまで言うのなら、それなりの論拠はあるのだろうな」
「論拠とかそういう難しいのは分からないけどさ、とにかく洒落で言ってる訳じゃないから」
「ならば手短にしろ。そろそろお前にも殺意を抱いてきた」
 おそらく冗談ではないだろう、と小刻みに震え始めた切っ先を見てソフィアは額に一つ汗を浮かべる。何分、トアラの黒鱗へ対する執着の仕方は異常とも言えるほど強かったのだ。今の自分は図らずともそれを妨害している形になっているのだから、下手を打てば本当に殺されかねない。
「オーボルトが言ってた事なんだけどさ。この子、ずっと前に人間に因縁つけられて襲われたんだって。そのせいで傷痕も出来ちゃったわ。これは私も確認してる」
「さっき口走った事のことだろう。だが、それだけで十分のはずだ。因縁とはただの事情聴取、竜族でもその程度の会話ぐらいは理解出来る」
「いや、そこがおかしいんだって。私みたいに学が無い人間でも会話が成り立つのに、何で諜報部の人間が会話が成り立たせられないの? 確かに竜族は変な事口走るけど、それを真に受けて逆上するような馬鹿に諜報員とか勤まる訳無いでしょ。それとも顔合わせてすぐに込み入った会話でもするの? この子、言ってたわよ。いきなり話しかけられて、そのままいきなり襲われたって。おかしいじゃない。慎重に追跡や観察してきたのに、どうしてそんないい加減な行動に出る訳?」
「それで、お前はどう結論付けたいんだ?」
「つまり、襲った奴とあんたの知人は別な人間じゃないのかってこと」