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「ふっ、足りない知恵を絞って何を企んでいるのかは知りませんが」
「所詮は劣等種族、何を言っても無意味な事です」
 ぬらりと檻の中から這い出してきた二つの影。それは催眠剤で眠らせていたはずのアヴィルドとヴェルバドだった。
「状況は分からないですが、まあさしたる問題はなさそうですし」
「それよりも、あの憎きグリエルモの匂いがしますね。兄君、早速潰しましょう」
 二人は長い間薬に眠らされていたにも関わらず、まるで何事も無かったかのような平然とした振る舞いをしていた。相変わらず状況を把握する力も意思も無いものの、少なくともグリエルモに対する攻撃性だけははっきりとしている。
「ちょっと、薬やるのサボってたんじゃないの?」
「いや、それはない。三時間ごとに必ず与えている。まだ効き目が持続しているはずだが……」
 だが現に二人はさほどの眠さも感じさせず、平素の状態を取り戻しているように見受けられる。本当に薬が効いているのならば、たとえ演技でもこれほど平然とした顔をするのはたとえ竜でも難しいはず。何故この二人は平然としていられるのか。トアラが驚きに眉を顰めている事実も含め、俄かには信じ難い光景だった。
「もしかすると、耐性がついたのかもしれない」
「耐性?」
「催眠剤はいわゆる麻薬性の成分で合成されているが、そういった薬物は繰り返し使用する事で効き目が薄れていく事がある。人間も薬物中毒者が末期になると大量に欲しがる。それと同じ理屈だ。もしかするとこの催眠剤は竜族にとって耐性が出来やすい成分だったのだろう」
「ろくにテストもしてないから分からなかったってこと。ま、ありがちよね。それで、どうするのよ」
「残念だが、奥の手はもう無い」
「竜殺し持ってるなら戦いなさいよ」
「私は非戦闘員だ。明らかに好戦的な竜とは戦うほど技術は無い」
 トアラの深刻な表情にはもはや余裕と呼べるようなものはほとんど見られなかった。これまで幾度と無く用意周到に立ち回ってきたトアラも、今度こそ本当に奥の手は無く万策尽きたようである。対抗手段が無いのであれば状況は一変し黒鱗が遥かに有利となる。つまりは食物連鎖通りの正常な状況下に陥ったのだ。
 丸腰で竜族と張り合うほど無謀な事をするつもりはない。それはトアラも同じ考えのはずだ。対する黒鱗はどちらも非常に攻撃的で精神的にも人間の基準で言えばまともな部類から大きく外れるのだから、口八丁もさほど効果は期待できないだろう。出来るだけ早く避難するのが賢い選択である。ただ、それをむざむざと見逃してくれるのかどうかが気になる所だ。
 そんな中、あれほど弱気な言葉を吐いたトアラがそれとは裏腹に、突然黒鱗達の前に立ち竜殺しを構えた。
「ひとまず時間は稼ぐ。その内に銀竜を連れて逃げろ」
 そして反対の手でソフィアに何かを押し付けてくる。それは特赦状の入ったあの封筒だった。
「ちょっと、冗談やめてよ。まさか死ぬ気?」
「表沙汰に出来ない経緯の特赦状に民間人の取引、これが発覚しただけでも私は重罪人だ。その上、機密も漏らし任務に巻き込んだ挙句死なせてしまえば極刑は免れない。どうせ死ぬなら汚名の無い方がいい」
 思わず胸が高鳴る。だが、それは決して甘酸っぱいようなものではない。もっと嫌な動悸だ。
「馬鹿言わないでよ! 私に負い目作らせないで!」
「意外だな。レポートによれば、こういう時はそそくさと逃げ出すはずなんだが。私に下手な気遣いは無用だ。早々に逃げろ」
「うるさい、的外れなレポートなんかいちいち引き合いに出さないでよ。私は生き死にまで都合良く押し付けるほど落ちぶれちゃいないわ」
「巻き添えで死なすくらいなら、負い目を負わせてでも生き延びさせた方がいい。こちらの都合だがな、諜報部にもそれなりの美学がある」
 こういう時に限って、妙な人間らしさを見せて来るなんて。ソフィアは感激するべきか激高するべきか悩んだ挙げ句、トアラの言葉を無視し意地でもこの場から離れるものかと気構えを見せた。それがトアラにとって迷惑なものだと分かってはいるが、素直に従って逃げ出すのはあまりに後味が悪く、それこそトアラの言い草ではないが自分の美学のようなものに反する気がするのだ。
「何やら細々とした話をしているようですが。弟君、この猿とは知り合いかな?」
「まさか。僕が動物嫌いなのを知っているでしょう」
「僕もそうだよ。やはり双子だね」
 緊張した面持ちのソフィアとトアラとは対照的に、黒鱗の兄弟はまるでピクニックにでも来ているかのような軽い雰囲気で和んでいる。元々場の空気を読むような種族では無いにしろ、この状況では逆に底知れぬ恐ろしさを感じさせられる様相に思えてならなかった。
「おや? ねえ兄君、そこの雌猿からグリエルモの匂いがしますよ」
「おお、本当だ。グリエルモのペットか何かだろうね。とりあえず腹が立つから軽くひねってあげましょうか」
「賛成、異議無しです」
 黒鱗の二人が同時に視線をソフィアへと向けてくる。朗らかな口調ではあったが、その目は瞳孔だけが爬虫類のように縦長に膨れた異形のものになっていた。思わず悲鳴を上げそうになったが、咄嗟に口を押さえ声が漏れるのを防ぐ。しかし押さえた指先は既に震え始めていた。そんなソフィアをトアラは背に庇い竜殺しを構える。トアラの刃物の構え方は明らかに素人よりはマシな程度のもので、本人が言った通り戦いの技術があるようには見えない。けれど、それでも自分を庇う姿はやけに勇ましく見えた。トアラの本心はこれなんだと噛みしめる、その僅かな余裕すら無い自分が歯がゆくてならない。
 その時だった。不意にソフィアは背後の気配が消えた事に気が付きすぐ振り返る。すると、これまでそこで震えていたはずのオーボルトの姿が消えていた。
「御無沙汰しております」
「誰かな? 僕は猿の知り合いはいないんだけど」
「私です。オーボルトです、兄上」
 オーボルトはいつの間にかトアラよりも更に前、黒鱗達との間に挟まるような立ち位置を取っていた。その様子はこれまでとは打って変わって別人のように落ち着き払っている。
「おお、我が妹じゃないか。猿の匂いのする服なんか着ているから分からなかったよ」
「どこかで別れたきり随分探したんだが。そうかそうか、グリエルモを見つけてくれたんだね。よし、これから仲良く三人で潰しにいこう」
 黒鱗でも妹は可愛いのか、不気味なほどの猫撫で声で微笑むアヴィルドとヴェルバド。しかしそれに対するオーボルトは凍てつくような視線を二人へ向けると、露骨に不愉快そうな溜息をついて見せた。
「相変わらずですね、兄上達も。いい加減、音楽からは足をお洗いになられましたか?」