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 船の出港時間が知らされて間もなく、ソフィアは一人客室を後にした。向かう先は船内に設けられた商業区画、オーボルトの服を調達するためである。
 状況が状況だけに、自室内に閉じこもりじっとしているのが常識的な行動だと思うのだが、トアラ曰く閉じこもったままではこちらが警戒している事が知られてしまうため、外出はむしろするべきなのだそうだ。少なくとも湾内にいる間は下手に手出しはしてこないだろうというのである。
 宿泊用の区画を抜けオープンスペースへ抜けると、そこには実に見慣れた平穏な風景があった。どこからどう見ても一般人にしか見えない客ばかり、そのほとんどが旅行者らしい気楽な立ち居振る舞いである。それらが全て軍部の人間による演技だとは俄に信じ難い。しかし、これだけの豪華客船のチケットがあっさり手に入る事もまた不自然極まりない事であって、やはりどれだけ馬鹿らしとは思いつつもここが軍部の腹の中であるという認識は捨てきれないでいる。
 商業区画に入ると、そこは実に華やかな店ばかりが立ち並んでいた。富裕層とまではいかなくとも、中間層よりはやや上の層をターゲットにしたらしい店が多く目立つ。さすがにこれだけの船に乗るのだから、初めから財布に全くゆとりのない者が乗ってくるのは稀であろう。
 トアラから金は多めに預かっている。この際、オーボルトだけでなく自分の分も調達しても構わないだろう。人の金なら何の躊躇いもなく使う方が、むしろ自然だ。
 そう勝手な解釈をし、まずは自らの買い物を始めた。オーボルトの服に関しては実際に試着しなければ正確なサイズは分からないが、あの格好で平然と町中を歩くクセに派手な服装は好まないようだから、ある程度サイズにゆとりのあるおとなしい物を買っていけば良いだろう。下着に関してはそれこそ計らなければ分からないが、腹の立ちそうな数字が出る事は目に見えているし、そもそも着用するのかも分からないから、とりあえずは必要無い。
 長居をするつもりはなかったものの、結局全ての買い物を終えるには予定の時間を随分超過してしまった。出航までの時間も残り少ない。ソフィアは急ぎ足で戻ろうとするものの、表向きには急ぐ理由など無い事を思い出し、出来る限り平素の歩調である事を努めて部屋へ向かった。
 買い物が終わったから、次はゆっくり湯船に浸かりたい。休めるのは今ぐらいしかないのだから、休める内に休んでいた方がいい。それから温かい食事も取りたいが、軍部の船で出される食べ物を口にするのはあまり気が進まない。竜族なら鼻は利くだろうが、そもそも毒という概念は無さそうだから嗅ぎ分けるような芸当は無理だろう。
「ただいま。今戻ったわよ」
 何事も無く部屋へ戻ってくると、グリエルモは早速とばかりにマンドリンを弾きながら心地良さそうに唄っていた。その傍でオーボルトは陶酔した表情で肩を揺らしながらグリエルモの歌に聞き入っている。そこからやや距離を取った窓際でトアラは、珍しく何をするでもなくじっと外の景色を眺めていた。
「ただいま。どうかした? 外に何かあるの?」
「いや、波間を眺めていただけだ。さすがに少しばかり疲れた」
「これだけやって疲れない方が異常よ。あれ、黙らせる?」
「構わないさ。あれはあれで盗聴防止のノイズになる。それに、少しばかり気に入り始めたところだ」
「あんたさ……相当疲れてると思うわよ」
 呆れるソフィアに軽く笑って見せるトアラ。言葉通り表情からはどことなく疲れの様子が窺えた。昨夜もほとんど寝ていないのだろうから、疲れが出ない方がおかしい。これまで終始鉄仮面のような無機質ぶりを発揮していただけに、少しばかり微笑ましくも思えたが、その内トアラまでもオーボルトの隣でグリエルモの歌を夢中で聞き入るようになってしまわないだろうかという不安感も少なくは無い。
 自分も風呂に入ろうと、ソフィアはまず額に薄っすら汗を浮かべ熱心に弾き語るグリエルモの元へ向かうと、いきなり手にしていたマンドリンを取り上げた。
「はい、ちょっとストップ」
「ああ、ソフィー。それを返してよ。お願いだよう、もう一曲だけ。もしくは二曲」
「何で増えてるのよ。別に唄ってもいいから、それよりも先に頭を拭きなさい。病み上がりなんだから。それからオーボルト、いつまでもそんな格好してないで、これに着替えて」
「あの……私はあなたのような淫らな服は遠慮したいのですが」
「今の格好よりはずっとマシだから安心しなさい」
 二人は渋々とソフィアの言う事に従い、グリエルモはタオルで頭を拭き始め、オーボルトは買って来た服に着替え始める。
 自分には兄弟はいなかったが、もしも居たとしたらきっとこのように手が掛かるものなのだろうとソフィアは思った。それはともかく、知らぬ間に突然仲良くなった二人の動向が妙に気になって仕方ない。オーボルトに対して嫉妬心がある訳ではないが、ペットとして可愛がってきたグリエルモが自分から少し距離を取るのは物寂しいものである。だから今後、自分が過剰に世話を焼きたがるのではないかと一瞬危機感を覚えたが、しかしそれはすぐに消えた。どう転んでも、単純にこれまでの気苦労が二倍になる以外の状況が思い浮かばないからである。
 そんな下らない事にいちいち拘っても仕方が無い。思考を切り替え、アメニティが揃えられた棚から必要なものを選び始める。ふとそこに、トアラが話しかけてきた。
「ソフィア、風呂が終わったら出掛けるぞ」
「どこに? そろそろ船も出るし、むしろ警戒しなくちゃいけないんじゃないの?」
「逃げ場の少ない部屋で待ち受けても仕方が無い。それに、食事も必要だ」
「こんな時に大胆ね。一服盛られるとか考えないの?」
「丸腰の人間に危害を加えたとなれば、それこそ大問題に発展する。将校クラスの首が幾つ飛ぶか分からない。それはそれで諜報部の立場としては興味深い興行になるが、刺し違えてまで拘るほどでもないからな」
「私も同感ね。で、いわゆる攻めの守りをしようって事?」
「それに近いかな。もし私の憶測が正解だったなら、この船には私の既知が乗っている。せっかくだから挨拶でもしておきたい」
 果たしてそんな偶然があるものだろうか?
 そう小首を傾げるソフィアだったが、やけに確信に満ちた表情を見せられては二の句を継げなかった。